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長くて面倒くさい話

きのう、ここに政治の話を書こうとして、「いや、やっぱり面倒くさいなあ」と思って消しちゃいました。でも、モヤモヤは残るので、その「いまの政治が面倒くさい理由」について書いてみたいと思います。

あ、ちなみにぼくは大学で政治学とかをちゃんと勉強した人間ではありませんので、専門にお勉強されている方々からすると、ちゃんちゃらおかしい誤解だらけ話であろうことは、あらかじめご了承ください。

重要法案が審議されるとき、しばしば「国民的議論が必要だ」と言われますよね。そして、野党が審議の継続を求めるなかで採決が強行されると、「十分な議論が尽くされていない」と言われます。

でも、ここでの「十分な議論」ってのが、具体的にどのような状態のことを指すのか? たとえば野党側の主張を一部取り入れて法案を修正すれば、それで「十分な議論」が成されたと判断するのか。

このへんの「議論が尽くされていない感」って、党議拘束にそもそもの問題があると思うんですね。

とくに、与党が絶対多数を保持している状況下だと、党議拘束をかけているかぎり、原理的にはどんな法案でも通っちゃう。国会は「議論」をする場ではなく、ただただ「説明」をする場になる。野党を「説得」する必要さえないんです。採決になれば勝つのは目に見えてるんだし、野党は野党で「絶対反対」の党議拘束をかけているわけだし。

メディアがしばしば口にする「説明不足」という言葉には、無意識のうちに「ここは〝説明〟をする場所なんだ」というニュアンスが込められてるんじゃないかと思います。

もしも、ここで党議拘束が外され、与党も野党も議員の一人ひとりが自分の思想信条に従って採決に臨むようになったら。

とうぜん、「説明」ではない「説得」がはじまりますよね。ケンケンガクガクの「議論」がはじまりますよね。そしてしかるべきタイミングで採決となったときにも、「えーっ、もう決まっちゃうのー?」な感じはないはずなんです。だって「決まる」のではなく、自分たちの意志によって「決める」のですから。スリリングだと思うなあ、毎回。

実際、アメリカの議会には共和党も民主党も党議拘束はなく、それぞれの議員が自らの信念に従って採決に臨みます。ちなみにアメリカの両党には「党首」もいませんし、「党本部」もありません。

じゃあ、どうして日本の政治に党議拘束が存在するかといえば、議院内閣制だからです。議院内閣制発祥の地でもあるイギリスにも、けっこうガチンコな党議拘束が存在するそうです。

このへんの理由がけっこう入り組んでいて、第一の理由は、首相が「国民から直接選ばれたわけではない」ということ。首相とは議会(与党)によって選出されるものであり、首相が首相であることの根拠は、ただ「与党の信任を得ていること」の一点なんですね。だからこそ、造反する議員が続出してしまったら、首相の存在理由が足元からグラグラ揺れることになる。大統領制にはない「不信任決議」があるわけですしね。そのため、党議拘束をかけて党内を一枚岩にしておく必要がある。

もうひとつの理由は、議院内閣制の選挙が「人」よりも「党」に投票するものである、という点。日本の比例代表制なんかはわかりやすいですが、「比例で当選した自民党議員が、自民党内閣の法案に反対する」という構図は、比例で自民党に票を投じた有権者からすると納得がいかない。単純小選挙区制であるものの詳細なマニフェストを掲げて選挙戦をおこなうイギリスでも、有権者は候補者個人に投票しているというよりも「マニフェストの忠実な実行者」や「あの党首を首相にするための代理人」に投票している感覚が強い。だから、与党議員が内閣に反旗を翻すことは、有権者への裏切りにもつながりかねず、党議拘束がかけられる。

じゃあ、党議拘束ありきのイギリスでどう「議論」が担保され、どこまでいけば「十分な議論」がなされたと判断されるのか。残念ながら、このへんはよくわかりません。いちおう、日本の自民党の場合、それは部会であり、その上にある政策調査会であり、総務会だと言われています。そこではもう、ケンケンガクガクの議論がなされていると。ところが、ここがまた話をややこしくしてしまうのです。

というのも、総務会にも政策調査会にも「最後は全会一致」の原則があるんですね。日本人らしいなあ、と思っちゃう部分でもあるけど、要するにそれって「ごちゃごちゃ言わず、党の決定に従え」ということですよね。ってことは、党議拘束の話となんら変わりがない。党内の最大派閥が「これで行く」と決めたら、最後の最後は全会一致せざるをえないのですから。

そして、こうした派閥政治の弊害を打破しようとしたのが、小選挙区制を軸とした選挙制度改革だったのでしょう。同じ党の候補者と同じ選挙区で戦う必要がなければ、選挙戦に札束が飛び交うこともなくなり、やがて派閥は弱体化していく。派閥がなくなってしまえば、党内で自由な議論が可能となる。そういう前向きな目論見は、当然あったはずだと思います。ゆくゆくは首相公選制まで視野に入っていたはずですし。

ところがどっこい、小選挙区制を導入すると、ますます党議拘束が厳しくなった。少しでも党執行部に異を唱えようものなら、次の選挙で公認を外されるかもしれないという恐怖が蔓延し、より活発な議論が聞かれなくなった。このまま首相公選制なんてことをやっちゃったら、なおさら首相の権限が強くなり、公認をほしがる議員たちはぺこぺこ追従するようになる。

……とかなんとか考えていくと、もう「いやあ、面倒くせえなあ」の感想しか出てこなくなってしまいます。こんがらがってるとはこういうことだ、と言わんばかりのぐちゃぐちゃですよ。

でもなあ、あの新国立競技場の実行委員会でも最後は全会一致だったといいますし、「党議拘束しちゃダメよ」と「全会一致もしちゃダメよ」をルール化したら、いろんなことが変わるんじゃないかと思うんですよねえ。

一人ひとりが自分のアタマで考えて、自分の責任でもって行動する。党議拘束と全会一致は、そこからいちばん遠い発想だと思うな。