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「忙しい」の正体を考える。

たまには言ってもいいだろう。

忙しい。まったくもって、忙しい。一般的に「言わないほうがいいこと」とされていることばだけれども、言うのをがまんしたって意味がない。忙しいものは忙しいのだ。

で、忙しいのだからほんとうはここで書き終えたいくらいなんだけれども、さすがにそういうわけにもいかない。そこで「忙しい」の正体を少し、考えてみたいと思う。

まず「忙しい」には、「時間が足りない」の側面がある。たとえば一般的なお仕事でいえば納期。ぼくの場合でいえば締切。これが存在しない世界であれば、どれだけおおきな仕事を抱えていても忙しい感じはしない。終わらなかった仕事は明日にまわし、来週にまわし、なんなら来月にまわしたってかまわないのだ。しかし納期や締切というリミットがあるかぎりそれはかなわず、「忙しい」になってしまう。時間が足りないのである。

さらに「忙しい」には、「やることが多い」の側面もある。もしもひとつの仕事に集中させてくれるのなら、たとえ納期や締切があっても大丈夫かもしれない。しかし大体の場合において仕事とは複数重なってくるものであり、それは複数のプロジェクトを抱えているような場合もあれば、メールの返信や経費の精算に代表される細々とした仕事が山積みになることもある。さらに家庭人としてのお仕事もあるだろうし、ほんとうの意味で「ひとつ」に集中するなんて土台無理なのである。

そして「やることが多い」と「時間が足りない」はいとも簡単にタッグを組み、忙しさに拍車をかけてくる。

いったいどう、拍車をかけるのか。

それこそが忙しさの本丸とも言える「焦り」である。

考えてみてほしい。納期・締切のない仕事などありえないのだから、いつだって時間は足りない。そして「ひとつ」に集中できることなどありえないのだから、いつだってやることは多い。上記のふたつはいわばデフォルトであって、忙しさの前提条件だ。人が「忙しい、忙しい」とあたふたするのは、ひとえに焦っているからであり、焦りさえ払拭できれば(心理的な)忙しさは消えるはずなのだ。


じゃあ、泰然自若にかまえていて「時間」が増えたり、「やること」が減ったりするのか。しない。けれどもまあ、焦りは禁物だと肝に銘じて、この期間をくぐり抜けるしかないのである。もちろん、油断禁物のことばも肝に銘じて。