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書いておかないと確実に忘れてしまうもの。

昼ごはんを食べていた。

そりゃあ昼ごはんくらい毎日食うだろう。と自分でも思うので書き足すと、六本木ヒルズで昼ごはんを食べていた。こう書くと、すこし「ほう」と興味をもってもらえる。平日の昼間に、しかも六本木ヒルズでランチだなんて、お前どうしたんだ。たしかに六本木ヒルズはただの建築物・商業施設であることを超えた、シンボル性みたいなものが込められたワードだ。

しかし期待を裏切るかもしれない話をすると、ぼくの行き先は六本木ヒルズそのものというより、そこにある映画館だった。公開初日の『オッペンハイマー』を観に行ったのである。

と書くとここから映画の感想がはじまると思われるかもしれないが、違う。ぼくが書こうとしているのは、あくまでも上映前に食べた昼ごはんだ。

中華料理店に入った。テーブルに載せられたQRコードを読み込んでのモバイルオーダーというやつで、担々麺セットを注文した。担々麺に水餃子、そして杏仁豆腐がついてくるセットである。

とはいえ担々麺を食べて感じたこと、つまり、うまいまずいの話をしたいのではなく、隣のテーブルに60歳代後半くらいだろうか。マダムっぽい方々の四人組がいた。とてもお上品な服を着て、お上品なことばづかいで、お上品なスピードのなか、語らい食べていた。

聞く耳を立てていたわけではないものの、話が漏れ聞こえてくる。

ひとりのおばさまが、目の前に座るおばさまに「そういえば○○さん、メガネのケースは何色?」とおっしゃった。聞かれたおばさまは——ぼくがそう思ったのと同じく——「あら、どうして?」と答えた。そりゃそうだ。色を答えるより先に、なんでそんな質問をしているのか知りたい。すると聞いたおばさまが、長い長い話をはじめた。

おばさまは、なにかの習いごとを主宰する方のようだった。そしてもう何年も前、たくさんの関係者が集まるパーティー的なものを開いた。パーティーが解散したとき、だれかが赤いメガネケースを忘れていった。おばさまは、おおいに心配した。だって、ケースがなかったらたいへんだもの。それからというもの、来る日も来る日も、参加者たちにメガネケースのことを聞いてまわった。あなたのメガネケースは何色かしら? しかし、持ち主は一向に現れない。そしてきょう、数年ぶりにあなたに会った。あなたこそが、あのメガネケースの持ち主ではないかとわたしは思っている。メガネケースはいまでも大切に、自宅にとってある。さあ、聞きます。あなたのメガネケースは何色かしら?

途中に出てきた人物名、亡くなった知人への寸評、店名らしきもの、などを省いて短くまとめると、こういう話だった。担々麺を食べるぼくも、いつの間にかメガネケースとの感動の再会を期待していた。しかし、聞かれたおばさまの答えは、意外なものだった。



「あなた、3年前にもそれ聞いたわよ」


きゃー、恥ずかしい。そうだったのぉ? わたしったら、ごめんなさい。といったリアクションがあるものと思った刹那、聞いたおばさまは真剣な表情でおっしゃった。


「そうなのよねえ」


驚いたことにメガネケースの話題はここで完全に終了し、今度はふたりの長話に飽いていたであろう別のおばさまが、インスタグラムの話をはじめた。最近わたし、インスタでファッションチェックしてるの。

『オッペンハイマー』を観た日の note がそれかい。と思われる方も多いだろうが、こういう些事こそ、書き残しておかないと明日にも忘れてしまうと思うのだ。まさしく本日の備忘録である。