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人生でいちばんのアドバイス。

16歳と、17歳の会話である。

サッカー部のめちゃくちゃうまい先輩に、ぼくは「どうやったら強いボールが蹴れるようになりますか?」と聞いた。いろいろ改善すべき点の多いサッカー部員だったぼくは、自分のいちばんの欠点をキック力のなさだと感じていた。思いきりボールを蹴っても、遠くまで飛ばない。先輩たちみたいに強いシュートが、ぜんぜん打てない。かといって筋力だけの問題だとも思えず、きっとフォームが悪いのだろう、と当たりをつけていた。

先輩は「インステップ(足の甲)だけでリフティングを100回できるようになれ」と言った。リフティングとは、試合前や練習前のサッカー選手がボールをポンポンお手玉のように遊んでいる、あれである。先輩は続ける。足の甲だけでリフティングするには、足の甲の中心で、ボールの中心をうまく捉える技術が必要になる。そしてその「中心で中心を捉える」ことができていないから、お前のキックは弱いんだ。実際、できんやろ? インステップだけでリフティング100回。

おっしゃるとおり、できなかった。以来ぼくは、練習が終わったあとずっと足の甲だけでリフティングする時間を設け、やがて「中心で中心を捉える」の感覚をつかんでいった。

いま思い返しても、見事なアドバイスだったなあと思う。もしかしたらこれまでの人生で、いちばん役に立ったアドバイスかもしれない。

足の甲でのリフティング100回は、「いまできていないこと」であり、「やり続ければできること」であり、「それによって改善されること」が納得できる理屈の上で、提示されていた。しかも「できるようになったらうれしいこと」であり、「かっこいいこと」でもあった。当時17歳(もしかしたら16歳)だった先輩、どこであんな教えを身につけたんだろう。


ある時期から、クリエイティブの分野で「再現性」や「言語化」の重要性が語られるようになった。むかしながらの感覚的な教え方には「再現性」がなく、再現性を担保するために徹底した「言語化」が求められる、と。

それはそれで正しいと思うのだけど、どうだろう。自分がやっていることをなんとか言語化・法則化したとしても、実際には100のうちの20くらいしか言語化できていないのではなかろうか。

また、言語化の大切さが叫ばれるあまり、「言うだけ」の人が増えてしまっていないだろうか。それこそ「足の甲の中心で、ボールの中心を蹴るんだ」みたいな。理屈としてはわかるけれど、どうすればそれができるんですか、としか言えないような。そもそもあなたはできているんですか、と意地悪なことまで言いたくなるような。

何度思い返しても「足の甲でのリフティング100回」は完璧なアドバイスであり、自分も仕事の分野でああいうアドバイスというか、理論の落とし込みができればなあ、と思う。

17歳だったあの先輩は、50歳を超えたぼくにとってもまだ、あこがれの先輩なのである。