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続編であって、続編でない。

毎週、と言ってもまだ2週目だけど、『半沢直樹』を観ている。

おもしろい。とても、おもしろい。純粋な視聴者として「おもしれーなー」とたのしみつつ、つくり手サイドのことを考えては「すげーことだよなー」と感心しまくっている。

社会現象ともいえる大ヒットを記録したドラマの、待望の続編だ。お客さんは当然「半沢直樹」を期待している。「おもしろいドラマであること」よりも先に、「半沢直樹であること」を期待している。だからまず、半沢直樹でなければならない。半沢直樹を半沢直樹たらしめていたものを抽出し、再現していかねばならない。

しかしその「再現」が行き過ぎると、つまりお客さんの期待に応えようとしすぎると、今度はセルフパロディになってしまう。それでは興醒めだし、あたらしいお客さんの入場を拒むだけだ。半沢らしさを踏まえつつ、新機軸のおもしろさを提示していくこと。初回から第2回にかけて、そのバランスが絶妙に保たれているように、ぼくには映っている。

脚本レベルで感心するのは、企業買収まわりのスキームを、ちゃんと対話のなかで説明しているところだ。ナレーションにまかせず、モデル図を挿入したりもせず、登場人物の対話とホワイトボードを使ってのプレゼン劇で、しっかりと説明しきっている。物語の勢いを削ぐことなく、きわめて自然に、しかもコンパクトに、これだけ面倒な話を説明するのは、そう簡単にできることじゃないだろう。


観ながらどうしても考えてしまうのは、『幸せになる勇気』を執筆したときの自分だ。半沢直樹とは比べものにならないとはいえ、いちおうヒット作の続編ということで「あのおもしろさをもう一度」も考えたし、「やりすぎるとセルフパロディになる」も考えた。線引きに、ものすごく頭を悩ませたおぼえがあるし、どんなタイトルにするかも悩ましかった。これまででいちばん苦しみながら書いた本だ。

いま放送中の『半沢直樹』のタイトルは、「半沢直樹2」や「半沢直樹セカンドシーズン」ではなく、前回のまま『半沢直樹』だ。

これはテレビのおもしろいところで、たとえば金八先生も、毎回シリーズナンバーなしで『3年B組金八先生』として放送していた。シリーズナンバーが入るのは、DVDなどパッケージ化されたときだけだ。

『半沢直樹』のスタッフ・キャストのみなさんも、もしかしたら続編(2とかセカンドシーズンとか)をつくっているのではなく、ただ「半沢直樹」をつくっている感覚なのかもしれない。


ああ、おれはあのとき続編をつくっている感覚だったなあ、「2」をつくっている意識が確実にあったよなあ、そうじゃなく、ただ「嫌われる勇気」をつくっている感覚を持てれば、もう少しプレッシャーから解放されたのかもなあ、なんてことを思うのだ。