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「世界はいいから、お前はどう思ってるんだ?」

あれって誰が呼びはじめたのだろう。

小澤征爾さんが逝去された。メディアでは盛んに「世界のオザワ」との表現がくり返されている。国際的に活躍した、世界的に抜群の知名度があった、という意味なのだろう。黒澤明監督を「世界のクロサワ」と呼んだり、北野武さんを「世界のキタノ」と呼んだりするのもよく目にする。

しかし、たとえばアメリカ人が黒澤さんのことを「世界のクロサワ」と呼ぶことはないと思われる。それはぼくたち日本人が「世界のバーンスタイン」とか「世界のスピルバーグ」と言わないのと同じだ。アメリカ人だろうとフランス人だろうと「世界の」なんて冠はつけず、ただ「クロサワ」と呼ぶだろうし、いっそ「日本のクロサワ」と呼ぶだろう。

ならば「世界のオザワ」も「世界のクロサワ」も、見かけのスケール感に対して実際には日本国内でしか通用しない、きわめてドメスティックなネーミングということになる。

それはそれでいいんだけど、問題はカタカナだ。

小澤を「オザワ」と表記し、黒澤を「クロサワ」と表記するのは、いわばその名前を外来語として扱っていることになる。こう、海の向こうでも通用する、音楽好きや映画好きなら世界の誰もが知る固有名詞として。

だったら、「世界の映画ファンで『クロサワ』の名を知らない人はどこにもいない」みたいに書いていればいいのに、一足飛びで「世界のクロサワ」としてしまう。そしてあたかも世界各国でそう呼ばれているかのごとき無意識的錯覚を、読む人に与える。言ってるのは自分たちだけであるにもかかわらず。

そもそも国際的に知られた名前をカタカナ表記(外来語表記)する作法は、「ヒロシマ」だったり「ミナマタ」だったり震災後の「フクシマ」だったりと、悲劇と重なり合ったものが多い。そしてそのカタカナは「国際的にもこれだけ問題視されているんですよ」という、批判的な文脈で使われることがほとんどのような気がする。国際世論を盾に誰かを攻撃しているというか。


それもあってぼくは、地名や人名を安易に外来語化(カタカナ化)して、そこに権威や正義や正当性をかぶせようとする手法が、とても苦手なのだ。

おふたりとも「世界のクロサワ」とか「世界のオザワ」とか呼ばれること、そんなによろこんでなかったんじゃないかなあ。「世界はいいから、お前はどう思ってるんだ?」って話ですよね。