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求められる落ち着きについて。

本を読んでおいてよかったなあ、と思うことがある。

海外の作家・研究者による「文明」だとか「人類史」だとかを語ったタイプの本だ。具体的にいうと、ジャレド・ダイアモンドとか、スティーブン・ピンカーとか、ユヴァル・ノア・ハラリとか、そういう人たちの本だ。この手の本は、だいたいおもしろい。なるほどと思わされる視点がたくさんあり、好奇心をビンビンに刺激される。常識が覆されたり、おかげで別の本を手に取らなきゃいけなくなったり、それはそれはたいへんおもしろい。それぞれに新刊が出れば必ず買う、大ファンと言ってもいい。

しかし、読んでいて「あれ?」となる瞬間が、たまにある。

それは決まって、壮大な議論が日本やその周辺におよんだときだ。日本の文化や歴史について語られているのだけれども、その理解があまりにも一面的で薄っぺらいものだったりする。自信満々に書かれていながら「いやいや、そりゃないよ」な記述が多々見受けられる。

で、思うのだ。

日本に対する理解や認識がこの粗さなのだとしたら、ほかの国や地域を論じた部分も案外ザルなのかもしれないぞ、と。いちいち意地悪く疑うことはしたくないけれど、全部を鵜呑みにするのは危険だぞ、と。エンターテインメントとしてたのしむレベルにとどめておくのが得策だぞ、と。


いま、ウクライナで進行中の出来事についてもたぶん、ぼくらには「一面」しか見えていないのだろうな、と思う。西側メディアが報じるものがすべてではないし、ロシアのメディアが報じるものがすべてでも当然ない。

どう言えばいいんだろうなー。今回のことにかぎらず、敵対する陣営が流す情報って、いかにもプロパガンダに見えるし、そこにある「怪しいところ」を見つけるのも簡単なんだけれど、自陣が流す情報の「怪しさ」に気づくのって、相当な知性が求められると思うんですよね。知性というより、落ち着きなのかな。

そういう「これを正解だと思うなよ」の落ち着き、また教訓は、本を通じて学んでいる気がするなー。