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努力も根性もいらないけども。

まじめなひとですね、と言われることがあります。


最近では半分あきらめぎみに、ああそうかもしれませんね、と思うことにしているけれど、むかしは大いに傷ついていました。まじめであるということは、すなわち「おもしろくない」ということであり、もっと言えば「才能がない」ということでもある。不まじめで、破天荒で、けれどもいざという事が起こればビシッと決める、そんなひとになりたかったのです。

いま自分のことを客観的に評価すると、さすがにまじめだとは思いません。おのれの不まじめ成分は、うんざりするほどたくさん知っています。それでも、欠落した才覚をなんとか埋めようと、懸命にもがいている自分がいることは否定しないし、そんな自分を少しはポジティブにとらえている感じです。


じゃあ、そこでの「もがき」をなんと呼べばいいのか。

「努力」じゃないんだよなあ。そして間違っても「根性」なんかじゃないんだよ。自分にもぴったりきて、なおかつ誰かに向けて話すときにも違和感のないことばがないものか。ずっと考えてきました。


ある時期、それを「手を抜かない」や「サボらない」ということばに置き換えるようになりました。努力や根性が大事だとは言わない。でも、とにかく手を抜かないこと。サボらないこと。ことばにできるとすれば、そこまでだ。そんなふうに思っていたのです。

でも、「手を抜かない」も「サボらない」も、ただの禁止則ですよね。あれをしちゃいけません、これをしちゃいけません、という、こころに禁止の柵を設けるネガティブリスト。どうも核心のところが掴みきれていない。そこのところがずっと、気になっていました。


そして先日、ふと思い当たったんです。


どうやらぼくは、歩いている。

車に乗ることもせず、自転車も使わず、走ることさえ戒めながら、理解という名の山坂道を、てくてくいつも歩いている。信号が変われば立ち止まり、答え(ゴール)を急ぐこともせず、なんならメモでもとりながら、あいもかわらず歩いてる。そのじれったさに我慢できなくなったとき、たぶんひとは手を抜くのだろう。タクシーをつかまえ、後部座席に座るのだろう。


歩こう。


ゴールが見えない不安を胸に、色を、景色を、風を、空気を、まるごとぜんぶ受け止めながら、平凡なる自分の「理解」が置いてけぼりにならない速度のままに、曲がりくねった山坂道を、ただ歩こう。

自分にコントロールできない速度で走ったとき、ひとは取り返しのつかない大事故をやらかすのだ。