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ぼくらはたぶん顔を見ている。

顔を見てるんだろうな、と思う。

たとえば、やあ、やあ、やあ。ひさしぶりの友だちと会う。まだなんにもしゃべっていないうちから、うれしくなり、ほんのちょっと照れくさくなる。このときぼくらは、友だちの顔を見ている。相手のことが好きなとき、ぼくらは相手の顔をもう、好きになっている。美醜の話ではなく、カレーライスやハンバーグの姿が好きなようにもう、その人の顔が好きなのだ。

会って話すといい人なのに、大好きといってもいいくらいなのに、SNS のなかで見かけたときには苦手に感じる人がいる。苦手とまではいかなくとも、ギャップを感じる人がいる。

これもたぶん、顔なのだ。

スマートフォンの、あるいはノートパソコンのディスプレイを覗き、そこのSNS アプリを覗いているときその人は、「ひとり」の顔をしている。

何百何千何万の人とおしゃべりしているようでいて、やはり周囲を遮断した「ひとり」の顔で、それを覗いている。まっ暗な部屋で、ぽつんとひとり、座っているときの顔。その顔のまま、抱える孤独。めぐらす妄想。そしてその顔のまま、つぶやかれることば。


SNS がその人の本性をあらわすかどうかは、ぼくにはわからない。けれど、その人の「ひとりのときの顔」をあらわすのは、間違いないんじゃないかと思う。

ぼくがいまいち SNS にのめり込めない——むしろ徐々に離れつつある——のは、「ひとりのときの顔」を見られるのが嫌なんだろうな。こんなもん、他人に見せるもんじゃないと思ってるんだろうな。そしてまた、好きな人の「ひとりのときの顔」もあんまし見るもんじゃないと思ってるんだろうな。

ぼくと会っているときのあなたを、あなたと会っているときのぼくを、その顔だけを見て、お互い好きでいたいよ。