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引退したあとの夢。

ライターをやっていて、ときどき疑問に思うことがある。

「はたしておれは、小論文を書けるのだろうか?」である。そりゃあ書くことを仕事にしているんだし、こうして毎日書いているんだし、小論文らしきものを書くだけだったらできるだろう。書くこと自体に苦労するとは、あまり思えない。

しかしながら受験の世界の小論文には、それ相応のルールなり型なりがあるやに聞く。そして自分は、そのルールや型を知らないし、まあ学ぶつもりもない。人生のさまざまな局面で、出たとこ勝負を是としてきた人間だ。

ぼくの書いたルール知らずの小論文を読んで、採点を担当する偉い人はどう思うのだろうか。「書き慣れてる感じはあるけど、ここのポイントがクリアできてないんだよなあ」と減点するのだろうか。それとも「正攻法ではないけれど、ちゃんと書けてるしおもしろい」なんて加点するのだろうか。

アメリカでは小論文のことを essay(エッセイ)と呼び、そこには厳格な採点基準があるのだという。踏襲すべき型があって、その型に題材がうまく当てはまっているか、そしてその型の展開が論理的整合性を保っているか、が評価の基準であり、「おもしろい」「おもしろくない」は、いったん度外視されるらしい。いや、実体験をともなわない読みかじりの耳学問に過ぎないのだけれども。

ひるがえって日本の作文・小論文教育において、そうした型を叩き込まれたおぼえは、あまりない。いや、高校時代に現国の教師が大嫌いで、現国の授業をほぼすべてボイコット(名画座に映画を観に行く)していた身なので、もしかしたらぼくの知らないところで教えられていたのかもしれないけれども、それでも一般に語られる型は、あまり存在しない気がする。


と書くと「型なんて気にせず、自由に書くのがいいんだよ」とおっしゃる方が出てくるのだが、型破りとは型があっての破り、なのであるから、やはりベースとなる型をある程度共有できていたほうが、自由が自由として羽ばたきやすいように思える。

それでぼくは「起承転結よりも『起承結』で書くのがいいよ」などと自分の本に書いてきたりしたのだけども、じゃあ自分が起転承結なる型を意識しながら書いているかというとそんなことはまったくなく、結果としてそういう流れになっていることが多い、おもしろい流れで書こうとしたらそうなっていた、というあとづけの型だったりする。

いったいなんの話をしているかというと、中学生なのかなあ、高校生なのかなあ。それくらいの年代のなんでもない子どもたちと一年間、じっくり作文だけについて考えるような時間をいつか持てたらなあ、と思っているのだ。これは若いころからずっと。ある意味自分の引退後の夢、理想の余生といえるのかもしれない。

ぽかぽかした教室で、子どもたちとのんびり語り合う時間、いいと思うんだよなあ。