見出し画像

もの書きたちの玉手箱。

ミュージシャンとの比較で考える。

ライブ活動をいっさいしない、というミュージシャンもいるけれど、基本的にミュージシャンは「ライブありき」の人たちだ。「ライブありき」とは、お客さんの前に立つということであり、自分の姿をさらすということだ。おかげでファンからすると、ミュージシャンの年齢的変化を——実際の年齢までは意識せずとも——なんとなく共有することができる。「ああ、少しお腹が出てきたなあ」とか「白髪が増えてきたなあ」とか、外見上の変化も。

一方、もの書きの人たちは、なかなか人前に出ない。インタビューやサイン会など、限られた場で姿を見せることはあっても、それとて限られた場だ。「著者近影」として数十年前の写真を使っている人さえいるほどで、ファンはずっとむかしのイメージのまま、年齢を重ねたことを意識せぬままその人を追いかけている。ミュージシャンに比べ、「あのころ」のイメージを保ちやすく、ファンも「あのころ」にすがりやすい。

が、そうやってお互いの年齢を忘れたまま、うすく好感をもっていた書き手たちについて、急に老いを意識させられる瞬間がやってくる。


あれ? そういえばこの人、ぜんぜんおもしろくないぞ?

思えばもう何年もこの人でよろこんだことないぞ?

今回たまたま良くなかったんじゃなくて、最近ずっとこうじゃない?

え? もしかしてこの人、もう……。


ぼんやり「あのころ」の記憶を引きずり続けたせいで、この事実に気づいた瞬間のショックはちょっと、計りしれないものがある。浦島太郎の玉手箱よろしく、突然ドスンと老いるのだ。小説家、エッセイスト、コラムニスト、あるいはライター。これまでの人生でぼくは、大小いくつもの玉手箱を開けてきたような気がする。


まあ、いまの日本の中高年はちょっと特殊なんですけどね。

単純に歳をとってつまんなくなったのか、震災をきっかけに変質してしまったのか、ツイッターのやりすぎでダメになっていったのか、よくわかんないところにあるから。

とりあえずぼくは自分の正気を保つため、ツイッターとは距離を置いておきたいな。なんか、わけのわからない話ですみません。