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言いたいことと、言えないこと。

思えばぼくらは、たくさんの秘密を抱えて生きている。

秘密というと、なにやら「墓場まで持っていく」的な、ぜったいに誰ひとりにも言えない深刻な事柄のようだけれど、もっと軽い秘密はたくさんある。たとえばここの note を書こうとしたとき。「これは書いちゃいけないか」と無意識のうちに通り過ぎている話は山ほどある。むしろ、「書いてもいいこと」のほうが少なくて、結果なにを書くかに困るのがわれわれというものだ。ツイッターやフェイスブックでも、おそらくそうだろう。

秘密には、「言えないこと」と「言いたくないこと」がある。

「言いたくないこと」は、こころの傷になっているような過去の出来事だったり、それを公表することで自分の立場が危うくなるようなことだったり、身近な誰かが傷ついたりするようなことだ。基本的に思い出したくもないことである。

一方の「言えないこと」はちょっとむずかしくって、その「言えない」には「言いたい」が混ざっていたりする。ほかの人には言えないけれど、あなたには言うことができる。そんな誰かを、ぼくらはさがしている。ともだちの大事な条件のひとつに「言えないことが、言える」がある。


ツイッターで暴れまわっている人たちは「言えないことが、言える相手」を捜す手間を省き、連絡をとって会いに行く手間を省き、ほんとうには言えないはずのことを、しゃべりまくっているのかもしれない。ぼくがツイッターをむずかしく思っているのは、「言えないことが、言える」場のよろこびを損ないたくないからかもしれない。

「言えないこと」、そこに含まれる「言いたいこと」は、それを言える相手とだけ共有しているほうが、ぼくには気持ちがいいのだ。