等身大でいることの大切さ。
インタビューについて考える。
若いころのぼくもそうだったのだけど、ライターのなかには「自分をかしこく見せたい」との欲求を抱えた人が少なくない。これまた若いころのぼくがそうだったように、自らの出自や年齢、置かれた立場などになんらかの劣等コンプレックスを抱えた人ほど、自分をかしこく見せたがる。
それで、取材の現場でいかにも「かしこそうな質問」をする。妙な専門用語を交えたり、憶えたてのカタカナを使ったりしながら「かしこそうな質問」をする。
すると相手の方も「かしこそうな答え」を返してくる。そりゃそうだ。対話とは、共通言語によってなされるものなのだから、よほどのことがない限り相手の方は質問者と同じ言語体系にあることばを選んで、応答する。
取材する側としてこれは、海外旅行先で英語が通じたときのようなよろこびが、ちょっとだけある。「おお、自分はいまこんなむずかしい話をしているぞ」とか「こんな専門領域にまで踏み込んだぞ」とか「これができるおれは凡百のライターとは違うぞ」とかのよろこびを、思わず感じる。
しかしながら、そこで交わされた「かしこそうな対話」を原稿にしたとき、なかなか「おもしろい原稿」にはならない。もっと身もフタもない現実の話をすると、その原稿を読んでたのしんでくれるのは、背伸びをした取材者と同じ、「自分をかしこく見せたい読者」だけだったりする。
不勉強なまま現場に臨むのはまったくよくない。けれど、取材者のケチな「かしこく見せたい」欲求はできるだけ廃して、身の丈のまま会いに行かないと、けっきょくは取材相手にも読者にも、「おもしろくない原稿」という不利益を被らせることになってしまう。
取材者とは、かしこく見せたいと思った時点でもう、取り返しがつかないほどに莫迦なのだ。