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インタビューとおしゃべりの関係。

先日、とある媒体で対談形式の取材を受けた。

詳しくはまた掲載のタイミングで紹介できると思うけども、とても気持ちのいい時間を過ごすことができた。対談相手の方は柔和で、紳士的で、けれども芯が強く、いまの時代を象徴するような「人としてのまっとうさ」を持った方だった。そしてまた、対談の現場を進行し、インタビューするライターさんがとてもよかった。その場でもう「この人が書いてくれるのなら、いい原稿になるだろうな」と思わされた。自分はそんな安心感を、取材相手に提供できているだろうか、とさえ思った。

いまさらっと書いたけれども、取材する人間に求められるのは、「安心感」なのだと思う。

堂々としているとか、肝が据わっているとか、大御所っぽさが備わっているとか、「この人にまかせれば大丈夫」の安心感をもたらす要素は、いろいろあるだろう。

しかしいちばん大事なのは「この仕事をたのしんでいる」感なのだと思う。

あなたに会うことをたのしみにしていた。あなたにぜひこの話を聞いてみたいと思っていた。今回取材することになってはじめてあなたのことを知り、調べたのだけど、俄然興味が湧いてきた。そういう「この仕事」や「この機会」をたのしんでいる人は、とても安心できる。関心の矢印が「あなた」に向いている人は、取材を受けていてとても気持ちがいい。

一方で関心の矢印が「わたし」に向いている人、すなわち振られた仕事を首尾よくこなすことで精いっぱいの人、自分の評価ばかりを気にしている人から受ける取材は、やや苦しい。その人の仕事を成立させる協力者として振る舞うことが求められ、「情報」のやりとりに終始する。


『取材・執筆・推敲』のなかでぼくは、インタビューという場の異常性を、就活の採用面接に置き換えて説明した。閉鎖空間のなかで、初対面のインタビュアーと知らない人たち(編集者や広報担当者、カメラマンなど)に囲まれ、ひたすら質問に答えていく。その答えは「原稿に使える/使えない」という評価の対象となり、ときには誘導や挑発的な質問さえ投げかけられる。だから面接的な「問いと答え」の時間からいち早く脱し、リラックスした「おしゃべり」の時間にしなければならない。「おしゃべり」の先にこそ、ほんとうの取材はある。……そんな話を書いた。

そういや最近、ちゃんとしたインタビューってやってないなあ。またなにか企画を考えよう。インタビューをしているかぎり、世界への敬意を失わずにいれる気がするのだ。