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時代の変化ではない、自分の変化。

大学生のころ、音楽ライターになりたいな、と思ったことがあった。

好きな音楽の話を、自分の好きに書く。一般よりも早く、新譜を入手する。仕事としてライブに出かける。そして好きなミュージシャンに、好きなだけインタビューする。しかもそれでお給料がもらえるなんて、うらやましいにもほどがあるぜ。シンプルにそう思っていた。

しかし「おっさんになったらどうするんだろ」と思った。40歳(!)とかのおっさんになって、現場の、最新の音楽がわからなくなって、それでも若いころに好きだったバンドにしがみついて、「いまどきの若いもん」が鳴らす音楽にあれこれ文句をたれる。20歳前後の自分にとって40歳はじゅうぶんな中年であり、当時にも「いまどき」の音楽を否定したり無視するばかりの中年ライターは大勢いた。あんなふうにはなりたくないな、と思った。


今年ぼくは50歳になった。老けたり衰えたりの実感はないのだけれど、数字は正直だ。だれがなんと言おうと50歳なのである。学生時代の自分が予期していたように、「いまどき」の音楽よりも「あのころ」の音楽を愛好している。

で、それはそれで趣味の領域に置いている話だからかまわない。最近ちょっと困ったな、と思っているのが自分の本業たる本の世界である。

もう何年も前から思ってきたのだけれども、この数年いよいよビジネス書を読むのがつらくなってきた。もう少し正確に言うと「ビジネス書」カテゴリの上位にランクインしている本のうち、なにがどうおもしろいのか理解できない本が、あからさまに増えてきた。少なくとも30代の自分は、そうじゃなかった。好き嫌いはあったにせよ、それぞれのヒット作が求められている理由、選ばれている理由は、よくわかった。しかし現在、これが売れているんですよ、と教えてもらったビジネス書の「売れている理由」が、よくわからないことがある。読んでもわからず、読みとおすこともむずかしかったりする。ぜんぶの本がそうではないけれども。

つまりここでの「わからない」は、時代の変化ではなく、自分の変化として捉えるべき問題なのだろう。いまどきのビジネス書が云々ということではなく、自分の現場感覚がちょっと、ズレてきているのだろう。


ただし、ほんとうに幸いなことに現在、ぼくは書く側にいる。あの本やこの本が売れている理由がわからなくとも、自分がおもしろいと思う本を書けばいい、という立場にいる。音楽でいえば、ステージの側にいる。そりゃあ、「自分がおもしろいと思う本」が売れてくれないと生活が危ぶまれるのだけど、少なくともわからないものをわかったふりをしたり、わからないからといって全否定したりする必要はない。わたしはわたしで、自分の持ち場でがんばる。それだけだ。

小説やノンフィクション、人文書については読者として現役だし、売れている本の売れている理由もよくわかるんだけどなー。どうしてビジネス書だけそんなふうになっちゃったのか、自分自身の変化を少し考えてみたいです。