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うどんとラーメンの境界線。

ラーメンとは、ふしぎな食べものである。

多くの日本人がそうであるように、ぼくにも突然に湧き上がるラーメン欲、みたいなものがある。無性にラーメンが食べたい、なんとしてもラーメンが食べたい、どこのお店でもいいからとりあえずラーメンが食べたい、という欲求である。

そしてこの欲求は、どこのどんなラーメンを食べても最低限は満たされる。すっきりとした醤油ラーメンでも、野菜たっぷりのタンメンでも、濃厚な魚介豚骨でも、シンプルなとんこつでも、どれでも一定のラーメン欲は満たされる。天下一品みたいな何味なのかよくわからんラーメンでも、それは満たされる。

しかし考えてみればこれ、相当におかしな話だ。なぜってラーメンの命であるはずのスープの味が、つまりは素材が、それぞれまったく違うのだから。ほとんど別の料理と言ってもいいほど違うのだから。

そこで普通は「じゃあ、熱々のスープに麺が入っている食べものを、ぼくらは食べたいんだろうな。それがラーメン欲の正体なんだろうな」と思う。

ところがラーメン欲を満たそうと熱々のたぬきそばを食べたところで、その欲はまったく満たされてくれない。ラーメンと同じ小麦の麺を使ったうどんであっても、それは同様である。

じゃあ、なに? かつおや昆布の和風だしだからラーメン欲が満たされないの? もっと動物性の、鶏ガラとか豚骨とかのスープじゃないと、いまいちラーメン感が出てくれないの?

もちろんそれはあるんだろうけれど、境界線をそこに引いたら、せっかくの話が終了してしまう。もう少し可能性を探ろう。

ラーメンとうどんの違い。ここで意外と見落とされがちなのは、「油」の存在である。ラーメンスープの表面をよくごらんなさい。そこにはラード的な油が、水たまりをつくるように浮いている。場合によってはどんぶり全体に、透明な膜を張っている。

それにひきかえ、うどん・そばの油は、天ぷらの衣から染み出たものが浮く程度であり、天ぷら由来ということはすなわち植物性の油だ。ここに、この一点にこそ、ラーメンの秘密があるのではなかろうか。

もしもこの仮説が正しかった場合、うどん・そばにラードを浮かせれば、それなりのラーメン感を創出できることになる。天ぷらの代わりとしてチャーシューを載せるなどすれば、なおラーメンっぽくなるだろう。

しかしながらこの料理、いくらイメージを膨らませたところでおいしそうな気がまるでせず、実験するには至っていない。


フランシス・ベーコンは「実験」のことを、「自然を拷問にかけ、白状させること」と定義していたそうだ。

うん。ラードがたっぷり浮いたうどんは、ちょっと拷問感がある。