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友だちをつくるのと仲間をつくるのはどちらがむずかしいか。

「おれたち、仲間だよな」「わたしたち、友だちだよね」

実際にだれかと言い合った記憶は乏しいものの、ドラマや小説やマンガなどでよくあるセリフだ。そしてなんとなく、これまでのぼくは友だちよりも絆のつよいものとして、仲間ということばを認識してきた気がする。だれかについて聞かれたときに「あいつは……友だちっていうより、仲間って感じですかね」みたいな。

しかし現実世界において、仲間をつくるのと友だちをつくるのと、どちらがむずかしいかといえば、じつは友だちだ。

というのも、なにか「同じもの」を見ていたり、「同じ方向」を見ていたりすれば、それは仲間だと言える。同じアイドルが好き。同じミュージシャンが好き。同じ作家が好き。それはじゅうぶんに仲間の条件を満たしている。同好の士、というやつである。さらにまた、同じ会社で働いているというだけでその人は仕事仲間だ。100人の会社にいれば、100人の仕事仲間がいる計算になる。

一方の友だちとは、どういう存在か。それは互いが向き合ったときに感じる親しみの度合いによって決せられる関係である。つまり、100人の仕事仲間を有する会社に勤めていながらも、友だちと呼べるほどの相手は3人とか5人とか、場合によってはゼロだったりする。あるいは同じアイドルを好いていたとしても、その人の気質や性格、雰囲気その他を好ましく感じなければ友だちにはなれない。意外にむずかしいことなのだ、友だちをつくるのは。


20代の途中で上京してしばらくのあいだ、ぼくには友だちがいなかった。知り合いもおらず、ソーシャルメディアもマッチングアプリもなかった。いわんや、仲間だなんて。当時はそう思っていた。

しかし、友だちよりもずっとずっとハードルの低いものとして仲間がある。友だちを見つけるのは大変だけれども、仲間を見つけるのは簡単だ。……というからくりを知っていれば、もう少し早く孤独の森から抜け出すことができたのかもしれない。

仕事仲間、バイト仲間、趣味の仲間、飲み仲間。そういう仲間から出発して少しずつ友だちに接近していけばよかったのだ。いきなり友だちを探そうとしていた自分が、無茶だったのだ。小中学生のころだって、クラスメイトという「学級仲間」のなかから何人かの友だちをつくっていたんだしね。

その意味ではオンラインサロンみたいな場所も、「仲間づくりの場」としてはなんら否定されるべきものでもないんだろうなー。