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つらつらと、きょうの自分について。

あれは、そう。ぼくがまだ若かったころ。

この note を書きながら気づいたのだけど、ぼくは「若かったあのころ」の仕事について話すとき、なんとなく「10年くらい前」と言ってしまう癖がある。しかし実際に指を折り曲げながら考えれば、それらの大半は15年くらい前だったりする。つまりは、過去を振り返る「いま」がそれだけ進行しているということであり、そろそろ体内時計を調整しないとぼくは、ただのホラ吹きブタ野郎になってしまう。

ということで15年か、それ以上前のこと。

若く、浅はかで、ひょっとしたら金髪でもあったぼくは、取材先で自分をおおきく見せようとすることが多々あった。知ったかぶりもしていたし、必要以上に(聞きかじりの)知識を披瀝してもいたし、一度名刺交換しただけの人を「ああ、知ってますよ。最近連絡取っていませんけど」なんて限りなく漆黒に近いグレーな発言をすることも、正直あった。

そんなあるとき、取材先の社長さんが「古賀さんは1日にどれくらい本を読まれるのですか」と訊いてきた。ぼくは「まあ、資料の本だったら、そうですねえ。多いときで1日20冊くらいですかねえ」と答えた。おどろいた社長さんは「ぼくの本なんかより、古賀さんの速読術を本にしたらどうですか」と笑っていた。

いまも当時を思い出すと胃がきりきり痛むのだけど、1日20冊はうそではない。仕事の資料として読む本は、いまでも1日7〜8冊は読めるし、一度だけ切羽詰まったスケジュールのなか、20冊を読んだことがある。

ただし、それが「読書」なのかというと、さすがに違う。読みながら考えていることといえば「使える」「使えない」だけだし、だからこそ付箋を貼りまくったり赤線を引いたりするし、ざーっと眺めて5分とかからず「使えない」と放り投げる本もある。なんというかそれは、読書というより砂金探しみたいな作業だ。


一方、ほんとうに本を読もうとしたときのぼくは、とんでもない遅読家である。ドストエフスキーが好きだ、なんて言っているぼくだけれど、何度も読んだはずのたとえば『罪と罰』を読み返すときだって、大体1か月はかかってしまう。『カラマーゾフの兄弟』なんて完全に2か月コースだ。

そんな遅読家のぼくが、2年前から『小説現代』で書評の隔月連載を担当させていただいている。小説誌ということもあり、対象はエンターテインメント小説で、しかも刊行から3か月以内の新刊ばかり。この連載がなければ読まなかっただろう本も、当然ある。そして抜群におもしろかった本も、こころからおもしろいとは言いきれなかった本も、当然ある。


『罪の声』 塩田武士(2016年10月号)
『トヨトミの野望』 梶山三郎(2016年12月号)
『静かな雨』 宮下奈都(2017年2月号)
『ガーディアン』 薬丸岳(2017年4月号)
『凜』 蛭田亜紗子(2017年6月号)
『ボクたちはみんな大人になれなかった』 燃え殻(2017年8月号)
『その犬の歩むところ』 ボストン・テラン(2017年10月号)
『政治的に正しい警察小説』 葉真中顕(2017年12月号)
『悲しい話は終わりにしよう』 小嶋陽太郎(2018年2月号)
『仮面の君に告ぐ』 横関大(2018年4月号)
『そして、バトンは渡された』 瀬尾まいこ(2018年6月号)
『ウォーターゲーム』 吉田修一(2018年8月号)


そして今日、次回分の小説として湊かなえさんの新刊『ブロードキャスト』を読み、原稿の下書きを終えた。抜群におもしろい本だった。


……ほんとうは「遅読家が遅読になってしまう理由」というか、ぼくが本を読んでいるときに頭のなかで起こっていることについて書こうと思っていたんですけど、いささか疲れてしまったので、それはまた別の機会にします。