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日記にしてはいけない、の理由。

ただの日記を書いてはいけない。

これは note を週日更新すると決めたとき、自分に課したルールだ。理由はいくつかある。まずは「おれの日記なんて、だれが読む?」だ。別に自分が無名人であることを卑下した発想ではない。ぼくにだって友だちはいるし、知り合いはいる。「あいつ、きょうはどうしてるのかな」の関心をもってくれる人だって、ひとりやふたりはいるだろう。近況報告には近況報告の意味があるだろう。けれどもそれは、ツイッターやフェイスブック、インスタグラムなどでやればよろしいことであって、わざわざ「日記」の形式をとる必要はない。「つぶやき」だったら読んでくれる話でも、「日記」になった途端、だれも読んでくれなくなる。

続いて「おれの日記なんて、おもしろいはずがないだろう」だ。日記とは基本的に、出来事と所感の連続でまとめられるものである。今朝、電車のなかでこんなことがあった。ひどく驚いた。会社に着くとこんなことがあった。無念であった。そのくり返しが日記の基本形だろう。そして日記をつけることが義務となりノルマになるとたぶん、出来事の描写が減り、ただ所感のみをだらだら書き連ねることになる。つかれた、くるしい、面倒くさい。すべてを投げ出してパーッと飲みに行きたい。そういう感情の吐露だけが、ここを埋めていくだろう。「おもしろいはずがない」だ。

もうひとつあった懸念は「日記になれば、なにも考えなくなるだろう」だ。出来事を書く。所感を書く。次の出来事を書く。それへの所感を書く。また次の出来事を書く。その所感を書く。こんなことをくり返したところで、記録にはなってもそれ以上のものにはならない。あたまは、なにも考えを発展させない。日記がクセになると、書く習慣がつくどころか「考えない習慣」がつきかねない。

以上のようなことを考えて、この note を日記にしてはいけないと思ったのだ。日記に流されそうになる自分を見つけたら、こっぴどく説教してやれ、と思ったのだ。


きょう、出前で日清の RAMEN EX なるスーパーラーメンを注文した。到着後に電子レンジで調理する本格ラーメンだ。

ほんとうはその感想を書きたかったのだけれども、「それじゃあただの日記だよな」と躊躇し、こんな話を書いている。

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RAMEN EX の「すみれ監修 札幌濃厚味噌ラーメン」を食べた。

うまかった。また注文しようと思った。

以上。

これは日記ではない。