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ぶったまげたいのだ、わたしは。

むかし、1本30万円とかするワインをいただいたことがある。

自他共に認める大富豪の方を取材し、その方の著書を出版し、いやー、よかったね、ありがとね、みたいな席でご馳走になった。ぼくが、たぶん30歳くらいのころの話である。当時それほどワインを飲み慣れていなかったこともあり、正直ぼくは疑っていた。そりゃコンビニのワインよりはおいしいのだろうけれど、さすがに20万とか30万の価値はないだろう。所有欲や自己顕示欲を満たす効果はあったとしても、舌にはせいぜい1万円の喜びくらいしかないだろう。

ひと口飲んで、ぶったまげた。

もしもこれが「ワイン」なのだとしたら、自分がこれまで飲んでいたワインはアルコール入りのぶどうジュース、その酸化バージョンだ。おれは、というか世の中ほとんどの人々は、とんだパチモンをつかまされ、それをワインだと信じている。パチモンをありがたがっている。なんてことだ、まったく広すぎるぜ、世の中ってやつは。


まあ、あのとき以来、何十万円もするようなワインなど飲んでいないし、いま飲んだらまた違った感想になるのかもしれないけれど、当時そう思ったことは事実であり、ぼくのなかで大切な思い出となっている。

それまでどことなく小馬鹿にしていたルノワールの絵を、ルーブルだかオルセーだかの美術館ではじめて観たとき。商業主義の極みに立つクソジジイだと軽蔑していたストーンズを、はじめてドームで観たとき。あるいは夜の東京タワーを、はじめて真下から見上げたとき。高級なものでも高尚なものでもなくてかまわないから、(うっすらと)馬鹿にしていた「ホンモノ」に直接触れ、ぶっ飛ばされる経験は、何度やっても気持ちがいい。


きのうは黒澤明作品のなかでなんとなく過小評価していた『羅生門』を、大学生のとき以来20年以上ぶりに観て、「こんなにすげえ映画だったのか!」とぶっ飛ばされたのでした。

それにしても、「ぶっ飛ばされる」とか「ぶったまげる」の接頭辞「ぶっ」って、いいですよね。うっすら漂う、棒で打つ感じがたまらないです。