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10年経った、その先を。

平日の noteを書きはじめて、もう8年以上になる。

以前、あるインタビューのなかで「とりあえず10年は続けたい」と答えた。10年続ければ、なにか見えてくるかもしれないからと。吉本隆明さんも、そう言っていたからと。

なのでまあ、10年続けることはもう確定である。この8年のあいだにも公私ともどもいろんなことがあったし、これから1年半のあいだにも「こんなの書いてる場合じゃない」な事態は、たくさん起こるだろう。それでも、せっかく8年以上続けてきたのだから、10年を待たずして辞めるのはもったいない。「ここで辞めてる場合じゃない」のだ。

さて、それで問題は10年経った、その先である。2025年以降の話である。


「10年経ったらスパッと辞めてやる!」と思っていた時期もあった。「15年でも20年でもいけるんじゃない?」と思うことも多い。辞めたら後悔するだろうなあ、と思う反面、辞めるタイミングを失ってずるずる続けてもなあ、と思ったりもする。

また、「毎日の更新ではなく、週に1本の更新にする」という案も当初は考えた。そうすれば毎日の負担も減るし、仕事に集中できる日も多くなる。しかし、仮に毎週月曜日に更新すると決めた場合、土曜日や日曜日の憂鬱は相当なものになるだろう。いっそ毎日書くほうが肩に力を入れることなく続けられそうだ。

それで最近、「有料化もいいのかもしれないな」と思いはじめている。

おそらくこの noteを有料化した場合、読んでくださる方の数は激減するだろう。100分の1ならまだしも、1000分の1以下になることだって考えられる。いや、なるだろう。なにしろぼくは「役に立つ話」をなにひとつ提供できない人間だ。一般に「お金を払ってでも読まなきゃ!」と思ってもらうためには「読んだら得をする」の要素が不可欠であり、その「得をする」のなかには「役立つ情報が語られている」か「わたしの推しである」が不可欠で、ぼくという人間、及びぼくの noteはそのどちらにも該当しないと思われる。

さらにまた、有料化するということは「偶然に読んでくれる人」を排除することでもあり、それはあんまりおもしろくないよなあ、とも思う。できればときどき、偶然に読んでくださる方がいて「なるほどねー」くらいのことを思ってもらいたい。そういう開かれた偶然のありかたこそが、インターネットやソーシャルメディアのおもしろさなのだとぼくは思う。

ただ、限られた人だけが読む、閉じられた場所ってのも、考えようによってはおもしろいのかもなあ、と最近思うのだ。というか、すべての人に対して開かれた場で、すべての人に気配りしながら書いているばかりだと、ことばの幹が先細りしていくような危機意識が正直ある。たとえばぼくは旧ツイッターにもフェイスブックにも、おもしろいことをひとつも書けない人間だけれども、それは自分の考える「おもしろいこと」を言いにくい空気が、そこにあるからだ。そしてその窮屈さは、noteのほうにも少しだけ感じはじめている。その萎縮は、とても危険なものだ。


まあ、まだまだ考える時間はある。この先にもきっと、何度も考えは変わるだろう。それでも以前ほど「有料化なんてありえない!」と思っているわけでないことは、思いの記録としてここに書いておいていいような気がした。