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ギャグではなくて、ユーモアを。

きのう、コーマック・マッカーシーの訃報が届いた。

とても好きな作家だった。残念である。……といったツイートをしようとして、はたと気がついた。べつに過去形で語る必要はないのだ。

たとえば「好きな作家は?」と聞かれて「夏目漱石です」と答える。これはなんら不自然なことではない。むしろ「夏目漱石でした」と過去形で語ったほうが、「どういうこと?」と相手を混乱させるだろう。

つまり、マッカーシーについても「好きな作家だった」ではなく、「好きな作家です」と語るだけでいいのだ。だって彼の作品や文体に対する「好き」が、過去のものとなったわけではないのだから。夏目漱石を好きであるように、これからも好きでいるはずなのだから。


といった話をするときにぼくは、しばしば夏目漱石の名前を挙げる。実際に好きだし、読むたびにすごいなあと思わされるし、なによりも1000円札の肖像に選ばれたほどの国民的作家だからだ。

それで、どうして彼が国民的作家になったのかというと、もちろん作品のおもしろさもあるのだけど、やはり「ユーモア」のおかげなのだと思う。実際『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』の一部を国語の教科書で読むかぎりにおいては、ユーモア作家と言ってもいいほどその色は強い。そしてユーモアが読む人の心理的ハードルを下げ、『草枕』以降のとても明るいとは思えない作品まで読ませていったのだろうと。

じゃあ、どうしてユーモアが読む人の心理的ハードルを下げるのか。それは「笑えておもしろいから」という以前に、ユーモアを交える作者の「余裕」のようなものが感じられるからだ。生真面目で、深刻で、いかにも切羽詰まった感じの文学作品(というか作者)には、どうしても身構えてしまう。同じことを語るにせよ、なんらかのユーモアを、つまりは余裕を保っておいてほしい。そういう心性が、人にはあるのではなかろうか。

ギャグ、ではない。夏目漱石はギャグを言ってるわけではないし、余裕のない人によるギャグというのは、十分ありえる。やっぱりほしいのはユーモアであり、それを生むだけの余裕、ゆとりなのだ。