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ぼくにとっての嫌われる勇気とは。

人はさまざまを、忘れていく生きものである。

犬だって猫だってライオンやコウノトリだって、さまざまを忘れる。先週に食べそこなったおやつについて、くよくよ思い悩む犬はいない。それどころかうちの犬を見ているかぎり、10分前の出来事を憶えているかどうかも、きわめて怪しい。生きることにおいて記憶は、最低限のものが備わっていればいいのだ。

けれども人間の場合、こちらは忘れたのに相手は憶えている、ということがままある。「あのときあなたはこんなことを言った」「こんなことをした」と指摘され、その記憶がすっぽり抜け落ちていることがある。それが酒の席での出来事だったりした場合、忘却の度合いははなはだしい。

ある時期からぼくは、日常においてなるべく嘘をつきたくないと思うようになった。そして嘘をつかないよう、心がけるようになった。完全に守れているわけではない。無意識的な嘘が漏れ出ることは、やはりある。それでも嘘というか、「心にもないこと」はほとんど言っていないし、原稿として書いてもいないはずだ。

そうすると生きることが、とても楽になる。

とくに、だれかから「あのときあなたはこんなことを言った」と指摘された際、それをきれいさっぱり忘れていたとしても「ああ、それはいかにも俺が言いそうなことだなあ」とか「たしかに俺はそう言うだろうなあ」と、納得することができる。

いったいこれの、なにが楽なのか。

それぞれの発言を、忘れてしまってもいいのである。あの人にこんなことを言ったとか、あのときにこんなことを口走ったとか、場の流れでこんな発言をしたとか、そのへんのさまざまをいちいち記憶しておく必要がないのだ。自分がそこでなにを言ったにせよ、それはおおまかな意味において自分の本心であるのだから。


きのう福岡のラジオでひさしぶりに『嫌われる勇気』について話したのだけど、たのしい収録後にふと気がついた。もしかするとぼくにとっての嫌われる勇気とは、「嘘をつかない勇気」だったのかもしれない、と。

お世辞も言わないし、おべっかも使わない。知ったかぶりもしないし、嫌いなものについて好きなふりをすることもしない。そういう「嘘をつかない勇気」を手に入れるのはなかなかむずかしいんだけれど、できるようになるとこれ、ものすごく楽になる。

みなさまもぜひ、「嘘をつかない勇気」を。