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犬との散歩で考える。

犬と毎朝、散歩に出る。

仕事を終えて家に帰る午後11時ごろ、犬はだいたい寝ている。もちろん玄関を開ける音で目を覚ましてくれる。それから吠えたり、飛びついたり、顔を舐めたりの「おかえりの儀式」はあるのだけれど、10分と経たずまた寝る。安心したかのように、ぶうぶう寝息を立てる。

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べつに薄情なわけじゃない。犬とはそういう生きものなのだし、起きている犬と触れあう時間を確保するためにも毎朝、犬と散歩に出る。朝のお散歩、通称「あさんぽ」である。

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週末はこれに加え、2時間ほどの本格的な散歩をする。

10年前の自分は、散歩する習慣など持っていなかった。ましてや、仕事前の朝に散歩するなんて、考えたことさえなかった。歩数計のレベルでいえば、間違いなく10年前よりいまのほうが健康的だし、ラクに歩ける距離も大幅に伸びた。

けれども、健康になったり若返ったりの実感は、正直どこにもない。体重も減っておらず、むしろ増えている。


さあ、ここは思考のおおきな岐路である。犬と散歩するようになった5年間を「少なくとも健康面においては、まったく意味のないものだった」と考えるのか。あるいは現状を「犬との散歩習慣ができたからこそ、ここで踏みとどまっている」と考えるのか。つまり、犬がいなかったらもっと悲惨な現在が待っていたと想像を膨らませるのか。

なにかを継続するにあたって、いちばんの薬は「成長の実感」である。成長の実感はほとんど、生きるよろこびそのものと言ってもかまわない。それに対して「踏みとどまり」は実感がむずかしいし、それをよろこびに変えることはもっとむずかしい。

以前、プロゴルファーの青木功さんに取材したとき、「若いころは勝つことばかり考えていた。優勝できなければ2位も5位も同じだと思っていた。だけど、歳を重ねてくると『踏ん張ること』のおもしろさがわかるようになった。8位から5位に順位を上げるような『踏ん張り』が、ゴルフのたのしさに変わっていった」という内容の話をされていた。

踏ん張ること。踏みとどまること。

あんまり華々しい話じゃないけれど、その地味なかっこよさを知り、めざしていける自分でありたいと願いつつ、明日もまた散歩に出るのである。