見出し画像

紙の新聞がほしい。

現在、電子版の新聞を3紙購読している。

紙の新聞はとっていない。もうずっと、とっていない。上京してすぐのころは、ぜんぜんお金がなかったにもかかわらず紙の新聞をとっていた。光熱費に準ずるものとして、NHK受信料と同じ種類のものとして、新聞をとっていた。巨人戦のチケットがもらえるかと思って、読売を選んだ。もらえたものは洗剤セットであり、それはそれで重宝した。

どうして貧乏をかえりみず、新聞をとることにしたのだろうか。きっと報道の、またはニュースの、そして社会の入口が、そこにあると思っていたのだろう。テレビ欄が大切な情報源だったこともあり、新聞を読まなければ社会から取り残されるような気がしていたのだろう。単なる習慣、惰性のなせるわざだったのだろう。そしてなにより便利なのだ、新聞紙があるといろいろと。

たとえば通販で地方のお菓子や果物を買うと、たまに緩衝材として新聞紙が詰められている。ぼくはこれを読むのが大好きで、ここで「新元号『令和』に決定」なんて特大ニュースの掲載された新聞に遭遇すると、あたかも大当たりを引き当てたような喜びがある。ポリエチレン製のプチプチなんて環境によろしくない緩衝材はやめて、みんな新聞紙を使ってほしいくらいだ。

そしてまた、雨に濡れた靴のなかに新聞紙を詰めるだとか、湿気取りとして下駄箱に新聞紙を敷くといいだとか、揚げものに使った油を新聞紙に吸わせるだとか、鏡や窓ガラスは新聞紙で拭くとピカピカになるだとか、子どものころに見知った生活の知恵は、ほとんど新聞紙の知恵といってもいいものが多い。落書きするのもチラシの裏だったし、いまよりもずっと紙が貴重なもので、その有効活用術を老若男女のみんなが考えていた気がする。

といって思い出すのがチリ紙交換で、チリ紙交換の車はたいてい「古新聞、古雑誌、ボロ、カタログ……」と回収可能な古紙の類いをアナウンスしながら住宅街を周回していた。古新聞、はわかる。ほとんどの家庭が新聞を購読していたし、いくら有効活用しようにも古新聞はたまっていく。回収し、チリ紙と交換してくれたらありがたい。

問題は古雑誌である。そんなに、ゴミとして定期的に処分しなければ置き場に困るほどみんな、雑誌を読んでいたのか。家に雑誌があふれていたのか。

たしかにうちの両親は読書に不熱心な人たちだったけれど、雑誌は家にたくさんあった気がする。新潮や文春などの週刊誌もあったし、文藝春秋もあった。料理や裁縫の雑誌もあったし、画報系の雑誌もあったように記憶している。そして子どもたちは学研の学習雑誌を購読し、コロコロ、ジャンプ、サンデー、スピリッツと、それぞれの成長段階に応じてそれぞれのマンガ雑誌を購読していた。音楽雑誌やプロレス雑誌も買うようになっていった。


いまでも読み終えた本をブックオフ的なところに持っていく人は多いと思うけど、そういう「換金可能な資産」としての古本じゃなく、もう放っておけば部屋が埋もれてしまうくらいに紙が、新聞や雑誌が、家庭にあふれかえっていた時代だったのだ。もちろんそれは「みんな紙が好きだった」とかいう話じゃなく、あそこで流通していた紙の総量がそのまま情報の総量だった、というだけの話なんだけれども、どうなんでしょうね。レコードが再評価されたり、紙の本が再評価されたりしているように、紙の新聞が、とくに便利グッズとしての「新聞紙」が再評価される時代ってこないのかな。

ぼくはほしいですよ、新聞紙。そろそろ大掃除を考える時期でもあるし。