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おれがつまらない、と勝新太郎は言った。

勝新太郎さんが、こんなことを言っていたそうだ。

「おれっていう人間とつきあうのは、おれだって大変だよ。でも、おれがつきあいやすい人間になっちゃったら、まずおれがつまらない」

この発言を受けて谷川俊太郎さんが、「私はすっかり感心した」と書いていた。「自分とつきあうのが大変だなんて考えたこともなかったからだ」という。そして谷川さんはもう一歩先まで、歩を進める。


ほんとは誰でも自分とつきあうのは大変なんじゃないか。ただ大変なのを自分じゃなく、他人のせいにしてるだけじゃないか。大変な自分と出会うまでは、ほんとに自分と出会ったことにならないんじゃないか。

「自分と出会う」1993年2月8日 朝日新聞


ぼくは勝新太郎さんではない。あんなに伝説化される、ハチャメチャな人間ではない。さすがに勝新太郎さんに比べれば、つきあいやすい人間であるはずだ。どこにでもいる、標準的な人間であるはずだ。

けれど、そんなぼくでも「自分とつきあう」のは、大変なんだろう。なぜなら「自分」は、生涯ずっとついてまわるただひとりの人間だから。凡庸なりに個性を持ち、つまりは長所と短所を持ち、要するになんらかの「つきあいにくさ」を持った自分と、ずっとつきあっていかなきゃならない。それはふつうに言って、大変なことだ。勝新さんみたいに自分をおもしろがることさえむずかしいのだから。それほどのわかりやすい個性では、ないのだから。


ソーシャルメディア上で、さまざまなコメントを残す人たち。だれかの発言に対して、コメントする。なにかのニュースに関して、コメントする。炎上しているその人に、コメントを書きこむ。ひとを笑い、世を憂い、あるいは憤る。書かずにはいられないものとして、そのコメントをまき散らす。

いつのころからかぼくは、「コメント」と「文章」を分けて考えるようになった。これは文量、文字数の話ではない。だれかやなにかへのリアクションとしてコメントすることと、自分発のことばを文章にすることは、同じ「書く」でもまったく違うのだと考えるようになった。

谷川俊太郎さんの言を借りるなら「ほんとは誰でも自分とつきあうのは大変なんじゃないか。ただ大変なのを自分じゃなく、他人のせいにしてるだけじゃないか」。

こうして毎日 note を書いたり、日記を書いたりしているひとたちは、自分とつきあう大変さと向き合っている、とも言えるのではないか。

自分みたいな人間が自分のことを書いたってだれも読まないよ、なんて思わなくていい。ちゃんと自分が読むのだし、大変な自分と出会うことが、自分が自分を書く理由なのだ。