見出し画像

その失敗の背後にあるもの。

だれだって、失敗することはある。

テストで失敗したとか、面接で失敗したとか、仕事で失敗したとか、試合で失敗したとか、人間関係で失敗したとか、いろいろある。その人の能力は、あまり関係がない。多くの場合失敗は「できたはずのこと」や「できたかもしれないこと」をしくじったとき、その二文字が与えられる。たとえばぼくが大谷翔平選手の投じる100マイルの剛速球を三振したとして、それは失敗とは呼ばない。しくじってすら、いないのだから。

そして「しくじり」を旨とする失敗は、どれほどの能力があろうと、またどれほどの経験を持っていようと、起きてしまう。猿も木から落ちるし、弘法も筆を誤るのだ。傍目には完ぺきに見えるあの人やこの人、あの企業やあのチームだって、失敗はする。

じゃあ、どんなときに人は失敗するのか。能力に関係なくやってくるものだとした場合の失敗とは、なにによって呼び込まれるのか。

最近になってそれは「あせり」なのだろうな、と思うようになった。

さまざまの要因や事情によって、あせって事にあたる。その結果、「できたはずのこと」や「できたかもしれないこと」をしくじる。だいたいの失敗とは、それで説明できるのではないだろうか。

ならば。仮に答えが「あせり」だとした場合、その背後にはどんな問題があるのだろうか。まず思い浮かぶのは「時間」である。時間が足りないから、あせる。テストの残り時間だったり、仕事の納期や締切だったり、時間を原因としてあせる人の気持ちはとてもよくわかる。ぼくだって締切前にはあせってしまう。

しかしながら「時間」だけだと、面接やスピーチなどの失敗が、うまく説明できない。空振り三振の失敗が、うまく説明できない。


そこで思い浮かぶのが「余裕」ということばである。時間的な余裕。精神的な余裕。肉体的な余裕。まわりを見回す余裕。これらさまざまの余裕が不足しているからこそ、人はあせって事をしくじるのだ。

去年の夏ごろからずっと、ひとつの仕事のことで頭がいっぱいになり、著しく余裕を失していた。仕事(具体的には執筆中の新刊)自体には集中できた気がするものの、あきらかにその他の方面で余裕を失い、大小の失敗を重ねてきた。

数時間前、その仕事がおおきな山場を超え、ようやくあたりを見回す余裕ができた。余裕を失っていたなあ、と即座に思った。

かっこいい人は、どんなときでも「ほんの少しの余裕」をキープできているものだ。明日から少しずつ、余裕の回復期に入ろうと思う。