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師走になるとぼくたちは。

いやあ、もう師走ですなあ。

この時期になると人は、なぜかそう言いたがる。たとえば年の明けた1月になって「いやあ、もう睦月ですなあ」と詠嘆する人はなかなかいない。3月の「弥生ですなあ」や8月の「葉月ですなあ」も、まず聞かない。どういうわけだかわれわれは、この時期にだけしみじみと、陰暦12月の異称たる「師走」を口にする。

いったいなぜであろうか。もちろん理由の筆頭として挙げられるのは、「年の暮れだから」である。ああ、もう今年も終わろうとしているよ。最後の月になってしまったよ。今年もいろいろあったけれど、なんとか無事にやってきたよ。そういう感慨がわれわれを「もう師走ですなあ」に向かわせる。わかりやすい理由だろう。

さらにまた、「師走」という音と字面の憶えやすさも影響しているだろう。考えてもみてほしい。本来「もう今年も終わろうとしているよ」の詠嘆は、「いやあ、もう12月ですなあ」の言いまわしで済むはずなのだ。それをわざわざ「師走」に言い換えているのは、この二文字にたまらぬ魅力を感じているからだと思われる。

では、師走の魅力とはなにか。

睦月(1月)、如月(2月)、弥生(3月)、卯月(4月)。
皐月(5月)、水無月(6月)、文月(7月)、葉月(8月)。
長月(9月)、神無月(10月)、霜月(11月)、師走(12月)。

字面からもう、師走はおかしい。ほとんどの月に「月」の字が当てられているにもかかわらず、弥生と師走にはそれがない。さらに、月ごとの自然現象を指した字が多いのに対して、師走はめちゃくちゃ師が走っている。美しい風景写真のなかに一枚だけ、街角のおもしろスナップが入っている感覚だ。しかもそのスナップ写真には「お経を上げるためほうぼうを走りまわる坊主たち」などというキャプション(ストーリー)まで添えられている。そのおかしみと気忙しさが、いかにも現在の自分と合致する。それゆえ人は、師走を特別なものとして記憶し、愛しているのだろう。わざわざ口に出して詠嘆したくなるのだろう。


なんの話をしてるのか。

トイレまで歩きながら「いやあ、もう師走ですなあ」と思ったのだ。いくつも入った約束ごとを果たすべく、東へ西へと奔走するおのれを思い浮かべ、「ですなあ」と詠嘆した。それだけの話である。