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人生に必要な遠近両用めがね。

人生には、遠近両用めがねが必要だ。

ぼくのまわりには近視や乱視の人が多い。けれどもめがねをかけている人は少なく、つまりはみんなコンタクトレンズを装着している。過去数十年にわたって近視と無縁な人生を送ってきたぼくにとって、眼球にレンズをコンタクトさせるなんてのは、このうえない恐怖だ。

しかしながら近年、スマートフォンのせいなのかようやく近視が本格化し、めがねの常用を試みてはあきらめている。めがねが似合うとか似合わないとかの話ではなく、かけるのが面倒くさいとかくさくないとかの話でもなく、老眼も本格化してきているからだ。

めがねをかければ遠くがすっきり見えるのだけど、近くがまるで見えなくなる。スマホはおろかパソコンのディスプレイでさえ、めがねをかけると見づらくなる。かといって近くを見るたびにめがねを上げ下げするのは億劫で、こういうときに人は遠近両用めがねを欲するのだなあ、と感じ入っている。

というわけで冒頭の一文に戻るのだけど、近くも遠くもくっきり見える遠近両用めがねは、これからの仕事人生にこそ必要だよなあと思うのだ。その、メタファーとしての遠近両用めがねが。

若いころに必要なのは「遠くを見るめがね」だ。当てずっぽうでもいいから五年先や十年先の自分を思い描き、そこに必要な「いま」を過ごす。俯いて手元足元を見たって気が滅入るだけなので、とにかく顔を上げ、ひた走る。転んだってかまわない。なにより怖いのは、遠くの景色がぼんやりしていることだ。走る先が、見えないことだ。

けれども一定の年齢に達すると、手元足元を見る落ち着きも重要になってくる。遠い向こうばかりを見て、いつもの調子でことを進めて、ふいに足元をすくわれる、なんてことはよく起こる。手元足元を見ようとしてこなかったせいで、「むかしの正解」を更新しないままおじさんになってしまうのだ。一定のキャリアがあり、それなりの成果を上げてきた人ほどこの罠——手元足元のお留守——にハマりやすい。そういう例を、ぼくは毎年のように見ている。

先を見ることは大切だ。夢を描くことも大切だ。だけども手元足元を凝視する落ち着きや謙虚さも、年を重ねるごとに大事になってくる。

人生には、遠近両用めがねが必要なのだ。