きみらはあれを、なぜそう飲むのか。
どうでもいいことが気になる。
ハリウッド映画やNetflixドラマを観ていると、欧米人はウィスキーを氷なしで飲む。ショットグラス、あるいはロックグラスにぽとぽとと注いで、いかにもうまそうに、くいっと飲む。水やソーダで割るシーンはほとんど記憶になく、氷を入れることさえ稀だ。
ぼくはさほどウィスキーを愛好する人間ではないものの、ウィスキーのたのしみといえばやはり「つくる」ことではないかと思う。すなわち、ソーダで割ったり、そこにレモンを添えたり、あるいはロックで飲む場合も透明度の高いロックアイスを使ったり。そういう「つくる」プロセスが、「さあ飲むぞ」の期待を高め、ウィスキーをおいしくしているのではなかろうか。それに比べて、ビールみたいに冷やしているわけでもない酒瓶からグラスに注いだだけのハリウッド方式は、さすがに味気ないのではなかろうか。
まあ、向こうの人たちは日本人に比べてアルコールを分解する能力に長けているとも聞くし、氷を入れたりソーダで割ったり、いわんやお湯で割ったりするのはちゃんちゃらおかしいのだろう。
じゃあ、それはいい。きみたちがウィスキーを生で飲むというのなら、別にそれでいい。
問題はきみたちが、つまみを食わないことだ。
場末のバーで失意の主人公がウィスキーを飲むとき、彼らは酒だけを注文してつまみを注文しない。日本みたいに無料で提供されるナッツもない。酒瓶から注いだだけのウィスキーを、ちびちび飲む。ときに、くいっとあおる。
なにをやっているのだ、きみたちは。そんなんでよくも飲めるなウィスキーを。平凡でドメスティックな酒飲みに過ぎないぼくなどは、そう思う。そもそも我々が酒で太るのは、酒そのもののカロリーによって太るのではなく、酒を飲むのに不可欠なつまみによって太っているのだ。それをばきみ、つまみをなくしてしまうなんて。
もっとも、向こうの人たちもビールやサングリアを飲むときには、いろいろと食べている。しかしながらそれはつまみというより食事であって、我々が麦茶を飲むくらいの感覚でグビグビやっている。
じゃあ、あの場末のバーで飲むウィスキーはなんなのか。プレジデント的な立場のおじさんが執務室で客人にすすめる、慰労や祝福のウィスキーはなんなのか。もてなすのなら、氷やつまみも用意しろよ。
葉巻みたいなものなのかな、と思った。書いてていま、そう思った。
べつに煙草でもいいんだけど、もうすこし特別感を出して、葉巻。そうであれば「勝利の一服」や「ねぎらいの一服」的な文脈として、あのウィスキーはありえる気がする。
ぼくは若いころ、ジャックダニエルばかり飲んでいました。好きだったわけでも、おいしかったわけでもありません。ただ、向こうのミュージシャンの楽屋写真などを見ると、かならずと言っていいほどジャックダニエルが置いてあったから。たのしかったのはたのしかったけど、悪酔いばかりしてた気がします。いま飲んだら、少しはおいしく感じるのかなあ。