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また犬の話をします。

うちの犬はなぜ、こんなにもかわいいのか。

わが家の愛息、ぺだるのことではない。犬と暮らすすべての人びとにとっての「うちの犬」である。犬好きなぼくなど、どんな犬を見てもかわいいと思う。たとえばネパールのあちらこちらで見かけた野良的な風貌の犬たちも、たまらなくかわいかった。

その無邪気さがかわいい
手足とさみしげな後頭部がかわいい
お気に入りの場所がかわいい
その警戒心のなさがかわいい
その笑顔がかわいい

それでもやっぱり、「うちの犬」はかわいい。比べるわけではないが、とびきりにかわいい。目が曇っているのか。だとしたら曇りの正体はなにか。

「わかる」からじゃないか、と思った。

その表情から、その仕草から、全身から漂うオーラ的なものから、いまなにを考えているのかが、よーくわかる。まるで人間と会うときのように、もしかしたらそれ以上に、その気持ちがよーくわかる。

ぜったい渡すもんか
あの人、こっちに来てない?
がおー
駆け出してみたら思いのほかたのしかった
なに食べてるの? くれないの?

もちろんここでの「わかる」は、多分に勘違いだ。一方的で手前勝手な思い込みだ。ほんとうのところは、なにもわからない。しかしながら「わかる」と言いきってかまわないだけの深い関係が、そこにはある。「あなたがたにはわからないかもしれないけれど、おれにはわかるんだ」と言いきれるだけの自信が、そこにはある。「そうだよね? お父さん、わかってるよね?」と問いかけてうなずいてもらえるだけの信頼が、そこにはある。だから生物としてひたすらかわいい仔犬時代より、意思の疎通が完成したおとな時代のほうが飼い主にはかわいい。かわいいが毎日更新されていくのは、信頼の深度が深まっていくからだ。

手に持ってるおやつください

そうだよね?