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そこでおにぎりをにぎるように。

遠足の弁当に、ちいさなおにぎりが3つ、入っていたとする。

また別の弁当に、ちいさなおにぎり3つぶんのごはんが、敷きつめられていたとする。おかずはどちらも同じだ。ウィンナーとか、玉子焼きとか、ほうれん草とか、そういう家庭的なおかずだ。それでこのふたつの弁当、どちらがうれしいだろうか。

決めつけるわけではないものの、多くの人がおにぎりのほうをうれしく感じるのではないかと思う。

おにぎりの実際的な利点といえば、①塩がふってあったり、具が入っていたり、海苔が巻いてあったりする。②箸を使わずに、手づかみで食べることができる。くらいのものだろう。そして遠足の弁当に入っているおにぎりは、おかずと同様に箸を使って食べることが多いだろう。遠足では手も汚れているだろうし、箸を置いたり持ったりすることも面倒くさい。

それでもなぜか、おにぎりのほうをうれしく感じてしまう。友だちの弁当におにぎりが入っていたら——そして自分の弁当がふつうの白飯だったら——うらやましく感じてしまう。


人間関係における好感とは、またモノやサービスを提供された際の気持ちよさとは、案外こういう「ごはんをおにぎりにする」程度のなにかによって、おおきく違ってくるような気がする。

一緒にいて気持ちのいい人とか、仕事をしながら気持ちいい人とかは、打算とは違ったところで自然と、ごはんをおにぎりにするくらいのひと手間を、自分にかけているような気がする。よろこんでもらいたくてそうしているというより、自分がそうしたいから。おにぎりになっていたほうが、なんか気持ちがいいから。

特別な具はいらない。場合によっては海苔を巻く必要さえない。ほんの少し塩をふって、ほどよいおおきさにごはんをにぎる。

なんでもないことばのやりとりのなかでも、それはできるはずだ。