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あこがれと尊敬の違いについて。

今年は、大谷翔平さんのことを考える機会が多い。

野茂英雄さんのことばかり考えていた時期もあるし、なにかにつけて中田英寿さんのことを考えていた時期も、イチローさんのことばかり考えていた時期もある。時代を代表するアスリートがいると、その人を起点にいろんなことを考えることができる。もちろん「時代を代表する経営者」や「時代を代表するアーティスト」でそれをやってもいいのだけれど、ぼくの場合はスポーツ選手がいちばん考えやすい。

たとえばぼくが高校球児だったとしよう。どんな高校球児にとっても、大谷翔平選手はあこがれの存在だろう。あこがれるとはつまり、「おれも大谷選手みたいになりたい」である。

しかしながら高校生にもなればもう、自分が大谷翔平選手になれないことくらい、わかっているはずだ。甲子園に出ることさえ夢のまた夢であるのに、「プロになる」「メジャーリーグに行く」「160キロの剛速球を投げる先発ピッチャーになる」「40本以上のホームランを打ち、ホームラン王争いをする」なんて、そりゃあ無理だ。だってそんな人、メジャーリーグの歴史にさえいないのだから。

まして、野球経験がゼロに等しいぼくの場合、「大谷選手みたいになりたい」は、なにがどう転んだって無理な相談である。


一方、「大谷選手みたいでありたい」は、どうだろうか。

大谷選手の偉ぶらない態度。大谷選手のストイックな姿。大谷選手の考え抜く姿勢。大谷選手のさわやかな清潔感。これらは年齢や才能に関係なく、すべて今日から真似のできる事柄である。大谷選手に「なる」ことはできなくても、大谷選手のようで「ある」ことはできるはずなのだ。


そして「あの人みたいになりたい」は「あこがれ」の対象であり、「あの人みたいでありたい」は「尊敬」の対象なのだと思う。

尊敬する人とは、なりたい人ではなく、自分もこうありたい人なのだ。


もっとも、「自分もこうありたい」と思えるには、ある程度詳しくその人のことを知っている必要がある。できれば言葉を交わせる距離に、いたほうが望ましい。そういう「ありたい人=尊敬する人」を身近に持っているのといないのとでは、その人の生き方はぜんぜん違ってくると思うのだ。