見出し画像

代名詞のありがたさ。

隠すことでもないだろうから書くけれど、きょう柿内芳文さんと会った。

と、「さん付け」して気持ち悪くなるのは、ぼくが普段彼のことをカッキーと呼んでいるからで、けれどもこういう場でカッキーと書くのはいかにも内輪な感があり仕方なくさん付けしてみたのだけれど、ここから先はもう「柿内芳文さん」でも「カッキー」でもなく、「彼」と呼べばそれで内輪感と気持ち悪さの両方を排除できるのは、代名詞のありがたさというものである。

いろいろな話をした。お互いがずぅーっと考えてきた、それぞれにとっての「おれはこれから、こういうことをやろうと思ってるんだよ」の話をした。へえー、とか、なるほどねー、とか言い合いながら「けっきょくそれ、おれがやろうとしてることと同じだよね」に行きついた。

やり方も見え方も出発点もぜんぜん違うのだけれど、めざしている先は同じなのだし、大事にしているものも同じなのだ。たぶん今後も、ぼくが本気になって考えた先の答えについては彼もちゃんと賛同してくれるだろうし、彼が本気になって考えた先の答えについてはぼくもしっかり賛同するだろう。本気じゃないところでの考えについては相違点も多いのだけれど、大事な大事な核についてはいつも、彼と掴み合えている気がする。


彼のような編集者と出会うことができて、ほんとうによかった、自分は運がよかったと、かなり本気で思っている。


……って、これを「カッキーのような編集者と出会うことができて」と書くと照れや邪念が入ってそう言えなくなるのだけど、その意味でもやっぱり、代名詞っていいものですね。身近なひとを「彼」や「彼女」と呼んで文字にすること、意外と自分の本音に迫る近道なのかもしれません。