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封書のなかのカミソリの刃。

ほとんど都市伝説のような、けれどもたぶんほんとうにあった話だ。

昭和の時代、ドラマや映画や小説のなかでしばしば「ファンレターのなかにカミソリの刃が入っている」という描写があった。なにも知らずに開封したアイドルや俳優さんがそれで怪我をするところまでが、セットで描かれていた。任侠映画や社会派映画だとここに、銃弾が入っていたりする。銃弾そのものに危険はない。相手を直接傷つけるためではなく、恫喝するために送っているわけだ。

おのれの顔面に鬚が生える日のことなど思いもよらず、カミソリの刃という道具に馴染みのなかった子ども時代のぼくは、あのファンレターにまぎれ込んだカミソリの刃が、とても怖かった。ぴゃっ、と線を引くように指を切る描写が、そこからどくどくと流れ出る血の描写が、このうえなく怖かった。そして実際に指を切らなかったとしても、カミソリ入りの封書を受けとることは恐怖以外の何者でもなかっただろう。たとえそれが嫌がらせレベルのものであったとしても、だ。

いま、ソーシャルメディア上で誹謗中傷のことばを投げつける人の多くは、ことばを投げつけているのではない。脅迫や傷害の意図を持ってカミソリの刃を、投げつけているのだ。

仮に「死ね」ということばを投げつけているとしてもそれは辞書的・医学的な意味での死を願っているのではなく、封書にカミソリの刃を忍ばせるような悪意を持って、そのことばを使っている。

そしてそういう相手と対するにあたってのいちばんの愚策は、「カミソリの刃を送り返すこと」である。傷つけ返そうと思わず、反応もせず、つまり怖がっている素振りも見せず、何事もなかったように自分を過ごす。そして、証拠品としてのカミソリの刃と封書その他を警察に届ける。脅迫や傷害、また致傷の罪に問うてもらう。

問題は誹謗中傷のことばが、カミソリの刃と同じ凶器として認められるか、という点にあるだろう。たとえば「死ね」という中傷のことばは、それ自体で指を切ったり血を流したりするものではない。しかし心には確実な傷を負わせ、その傷は時に何年も、何十年も癒えないまま言われた人を苦しめる。つまり脅迫としての「死ね」には、「心の致傷」もまた付随しているのだ。ことばだから脅迫にとどまる、というわけではまったくない。


いや、べつに自分の身になにかがあったとか、知り合いの身になにかがあったというわけではないんだけど、あまりに多くの人が誹謗中傷のことばを投げつけ合ってるなあ、と思ってさ。それはことばを投げてんじゃなくて、カミソリの刃を投げ合ってるようなもんなんだよ、と思うんですよ。ことばって、投げるあなたが思っている以上に相手を傷つけるものなんだよ、って。