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ダウンジャケットを着た朝に。

犬と猫、うどんとそば、そしてパンとごはん。

どういうわけだか人は、どちらか一方を選ばせたがるものである。「どっちが好き?」の質問に対して、「どっちも好き」はいちばんつまらない答えとみなされてしまう。うそでもテキトーでもいいから、どちらかを選ぶことが暗に求められる。直接そう問われたことはなくとも、その想定問答を自らに課し、あらかじめ答えを用意している人は多いのではないだろうか。


たとえば「夏と冬、どっちが好き?」の問いだ。

ぼくはきょう、この冬はじめてダウンジャケットをおろした。購入したばかりの水沢ダウン(二代目)に、はじめて袖を通した。洗面所に移動して鏡で着姿を確認すると、おいおいおい。まだ羽織ってから10秒も経っていないのに、もう右胸のあたりに犬の毛がくっついていた。まだ犬に触れていないにもかかわらず、だ。おそらくうちのリビングには、犬の毛が舞っているのだろう。ジャケットを羽織ったり、扉を開けたりする程度の微風で、白の毛が舞い上がるのだろう。

……という朝のひとときを書き記したのは、そう。ぼくにとっての冬の到来とは、木枯らしでも降雪でも鍋料理でもなく、福岡に住んでいたころだったら九州場所。そして東京で暮らすようになった現在はダウンジャケットなのである。つまり、ダウンジャケットをおろした今日からが、ぼくにとっての「この冬」なのである。鏡に映る自分を見ながらぼくは、「うわっ、もうぺだるの毛がついてる!」と驚くと同時に、「ほんとに冬になっちゃったんだなあ」としみじみしてしまった。


若いころ、ぼくは冬のほうが好きだと思っていた。

冬の寒さには、抵抗の余地があるのだ。シベリアとかだとぜんぜん違うんだろうけど、シャツを着て、その上にセーターを着て、コートを着て、それでマフラーでも巻いていれば、まあたいていの寒さは耐えられる。けれども夏の暑さは違う。夏のぼくらは、コートを脱いで、セーターを脱いで、シャツを脱いで、それでTシャツになるわけではない。冬と違って夏は、なんら体温調整のチャンスがないまま、いきなりTシャツなのだ。手も足も出せないなか、暑いのだ。だったら誰がどう考えても冬のほうがいいだろう。冬にはいつも、「もう一枚着る」という選択肢がある。「服」は言うにおよばず、ヒートテック、タイツ、ハラマキ、手袋、ニット帽などを加えていけば、いまよりかならず温かくなるのだ。


しかし、である。

たしかに冬の朝、一枚二枚三枚四枚、たくさん着込んで外出すれば、寒さはしのげるだろう。駅までの通勤ロードを、ぬくぬくに歩いていけることだろう。じゃあ、暖房の効きまくった電車に乗ったらどうなるのか。たとえマフラーを外し、コートを脱いだところで、まだまだ暑いのではないか。ほんとうはセーターも、なんならシャツさえも脱いでしまいたいくらいに暑いのではないか。そして通勤の時間帯、そもそもコートを脱ぐことさえむずかしいくらいに電車は混み合っているのではないか。仮に脱いだとしてもそれ、手に持つのはいかにも邪魔じゃないか。電車だけじゃない。飲食店、銀行、郵便局、本屋さん、コンサート会場、図書や美術や博物の館。ありとあらゆる場所で冬のぼくらは体温調節をしなければならない。脱いだり着たり、着たり脱いだりしなければならない。それにくらべて、どこでもTシャツ一枚で過ごす夏の、なんとシンプルで便利なことか。


というわけでいまは、夏派でも冬派でもありません。本を読んだり、音楽を聴いたりにはぜったい、冬のほうがいいんですけどね。