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物語をしりぞけて。

きのう、わりと盛大にお腹を壊した。

朝の4時くらいに猛烈な腹痛で目を覚まし、トイレに駆け込んだ。前日の夜に食べたものを思い出しながら「腹を冷やしたのかなあ」なんて首をひねりつつベッドに戻る。5分としないうちに再びトイレに駆け込む。それを3〜4回くり返したところで正露丸を服用するも、まだ収まらない。けっきょく昼過ぎまで調子が悪いまま、オフィス近くの薬局で購入した見慣れぬ止瀉薬を飲むと、今度は痛みの種類が変わる。左右の横隔膜あたりをキリキリ刺すような痛みが今朝、つまり翌朝まで続いた。いまどうにか収まりつつあるものの、感覚としてはいかにも「回復中」の不穏さを腹に抱えている。

で、こういう身体の不調に襲われたとき、ぼくはいつも考える。


もしも自分が医学や科学の発達していない時代の人間だったら、これをどう考えたのだろうなあ、と。


たとえば腹が痛いとき、患部に手をあてる。冷えた腹をあたためると、なんとなく痛みがやわらいでいく。手を離すと再び腹が冷え、痛みやトイレが近づいてくる。

こういう一連の流れにしても、医学的・科学的思考と縁遠い自分であったなら、「手かざし」の効果だと思うだろう。手をかざした結果、そこから放射される霊妙なる力によって、痛みが緩和されたのだと感謝するだろう。

そして霊妙なる力が患部の痛みをかき消すのだとしたら、そもそもの痛みだって寝冷えなどではなく、悪霊のしわざだと考えたほうが自然だ。おそらくぼくはここ最近のわが身を振り返り、神への感謝が足りなかったとか、神の意志に背いてこんな禁忌をおかしてしまっていたとか、反省するだろう。人間だもの。思い当たるフシは、山ほどあるだろう。


さて、大事なのはここからだ。

こうやって科学を排して考えていくと、その物語はべらぼうにゆたかでおもしろいものになる。腹痛ひとつでさえそうなのだから、異常気象をはじめとする天災、人びとのあいだに広まる疫病、そして事故の類いは、さらにゆたかな物語とともに語られていく。

一方で科学の答えは、さほどおもしろいものではない。きのうぼくが購入した止瀉薬の説明書きには、腸の蠕動運動が云々で、腸内の腐敗物を殺菌して云々といった文字列が並んでいたけれど、いまいちピンとこないし、即物的でおもしろみがない。腹のなかで小鬼が暴れ、それを聖なる霊力で鎮めるほうが物語としてずっと魅力的だ。


しばしば語られる陰謀論もまったく同じで、たしかに陰謀論は物語としておもしろく、「なるほど!」の驚きもあり、納得感もある。万能の巨悪——たとえばフリーメーソン。あるいは電通——を据え置くことによって、なんでも「それ」で説明できる気になってしまう。

でもねー。よのなか、そんなにおもしろくはできてないと思うんだよ。世界のカラクリをバシッと説明する「おもしろい物語」があったとしたら、それはほとんどぜんぶ「ほら話」だと思っていいんじゃないかな。


なにより、ほんとにすぐれた物語(フィクション)ってのはもっと複雑で、善も悪もぐちゃぐちゃで、八方塞がりで救いがないものだったりするものですからね。