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ぼくの考える「プロ」の条件。

もう後半戦、いや終盤戦と言ってもいいだろう。

いま書き進めている『ライターの教科書(仮)』という全10章の本、どうにかやっと、7章まで書き終えた。残りは8章、9章、最終章。まだまだトンネルは続くけれど、ずっとずっと先のほうに光が見えてきた気がする。ここから先の原稿は、ひと文字ごとに「おわり」を肌で感じつつ、書いていけそうな気がする。

とはいえ最終章まで書き上げるのは早くても2か月くらい先になるし、そこから地獄の推敲がはじまる。自分の性格から考えて、全面改稿に近いレベルでの推敲が、待っている。これにまた、1か月はかかるだろう。ってことは発売、10月か11月になるのかなあ。

なんとも呑気なスケジュールだけど、この本については焦ったり急いだりせず、自分のペースで、自分の納得のいくところまで、仕上げていきたい。



でね、じつはこの本、もともと編集者をつけずに書く予定だったんですよ。「もしも自分がライターの学校を開くとしたら、そこには教科書が必要だ」という、ものすごく私的な動機で書きはじめた本だから、編集者はいらないと思って。それでもけっきょく、いまカッキーこと柿内芳文氏を編集者として迎えて、つくっている。

これはぼくの「プロ論」に関わる話なんだけれど、ライターにとっての「わたしがプロである証」って、お金じゃないと思うんです。だって、ものを書いてお金を稼ぐだけだったら、アフィリエイト系ブロガーの人たちも「プロのライター」じゃないですか。それで生計を立てている人たちなんて、立派なプロじゃないですか。

だから、対価の有無を「プロの証」とするのは、少なくともライターの場合は違うんだろうなあ、と思っていて、じゃあなんなんだよ、って話になりますよね。なにがあればプロのライターと呼べるんだよ、って。


それでぼくの行きついた結論が、「編集者」だったんです。

自分の書く原稿に、編集者が介在していること。自分という人間に、編集者が価値を見出し、賭けていてくれること。自分のつくるものを信じて、待っていてくれる編集者がいること。賭ける、信じる、待つ。そういうことを仕事としている人(編集者)が隣を走っていてくれること。

これがあれば、「プロ」のライターなんじゃないか。稼ぎの多寡がどうあれ、自分を信じてくれる編集者がいれば、それでもう「プロ」の書き手じゃないか。そう思うんです。


だからねー。編集者にはこちらを信じてほしいし、こちらも編集者を信じていたいですよ。自分が関わっている、たとえばカッキーみたいな編集者だけでなく、日本中にいる編集者という存在そのものを。その信頼を揺るがせるような出来事が起こるのは、ほんとうに悲しいことですよ。若い人たちに「ライターっておもしろい仕事だよ」って、自信を持って言えなくなっちゃうもん。言いたいよ、ライターズ・カンパニーを標榜する会社を設立して、『ライターの教科書』みたいな本をつくっている身としてはさ。