「自分のため」は、つかれる。
いま、自分がとてもいい時期にいるな、という感覚がある。
会社があほみたいに大儲けしているわけではないし、すてきな婦女子たちにモテモテというわけでもないし、のんびりバカンスをたのしんでるわけでもないし、毎日会社に出ていつもの椅子に座り、なにかしら仕事をしている。それでも、たとえば去年の自分と比較したとき、いまのほうが断然気持ちのいい毎日を過ごしている。ぼくをよく知る友人からは「犬を飼ったからじゃない?」と言われそうだが、犬は去年にもいた。そしていまのぼくは、去年よりずっといい感じなのだ。
きょう、「あ、そういうことかも」ということばを見つけた。
ほぼ日刊イトイ新聞で連載中の「学ぶこと、盗むこと、仕入れること。」という鼎談での、糸井重里さんのことばだ。
コピーライターとして、まさに時代の寵児だった1980年代を振り返りながら糸井さんは、みんなが思っているほどは忙しくなかったと言う。とはいえ、それは時間的な忙しさの話で、「気忙しさ」という意味ではたしかに忙しくしていたのだろう、というニュアンスの話を糸井さんは続ける。そしてこう続ける。
糸井
「僕も売れっ子だと思われることに悪い気はしていなかったと思うんですが、忙しくみえるような働き方はなんか、無理をしていた気がします」
「(ほぼ日をはじめてからは)『俺ってすごいでしょ』と思われることなんて本当にどうでもよくなった。なぜそうなったか考えていて、やっぱり、自分のためにやる仕事は辛かったんです。そこから逃げたんです、僕は」
「若い人たちはとくに『俺のほうがすごいでしょ競争』をしがちだと思います。でもそれは辛いから、早く逃げたほうがいいです」
「逃げ道はあって、『自分のため』に仕事をするのではなく、『力を必要としてくれる誰かのため』に仕事をすると心持ちが変わると思います」
いま、ぼくは「自分のため」の仕事をしていない。
もう少し正確に言うと、「おれのすごさを証明・誇示するため」の仕事をしていない。よその誰かに対して、「おれってすごいでしょ」を見せつけたい気持ちはいま、まったくない。
それは「すごさを証明する必要がないくらい、すでに認められている」からではなく、単純にもう、そういうのに疲れたからだ。だから糸井さんがあえて使った「逃げた」のことばは、とてもよくわかる気がする。
ちょうどきのう、まさに「力を必要としてくれる誰かのため」と思える仕事がひとつ、本格的に動きはじめた。今年の予定にまっったく入ってなかった仕事だし、まわりからは「だいじょうぶ?」と心配する声も聞こえてくるのだけど、とてもすがすがしく、たのしみにしている。