それでも世のなか、よくなってるよ。
1973年、福岡県生まれ。
ぼくの著者略歴、その一行目に記される文言である。自分にとっての1973年は馴染みの深い、どこか青々しさまで感じさせる数字なのだけれども、今年が2022年であることを考えると、ずいぶんな昔だ。いまだぼくには、自分を若輩者とみなすところがある。いや、「人生の」という言葉に続けるならば圧倒的に「若輩者」だ。けれどもティーンエイジャーや20代のような、ぴちぴちした若さを持っているかといえば、それはもうない。考えてみれば人生のどの場面でもそう感じていたような気がするものの、むずかしい年齢だなあと思う。
老害、という言葉がある。
あまり女性の姿は浮かばない。もっぱら「害悪となっているじじいたち」を指す言葉だ。
そのじじいは、なぜ社会の害悪となっているのか。月並みな言葉で言えば、既得権だ。彼らはかつて、なんらかの権力を持っていた。あるいは現在もなお、それを持っている。そして歳月が流れ、おのれや社会が変化していくなかで、その力が奪われようとしている。ふざけるな、わしを誰だと思っておるのじゃ。彼らは既得権を守るべく、攻撃に転じる。権力の刃を振るうのかもしれないし、露骨に足を引っぱるのかもしれないし、どうでもいいような愚痴・小言をこぼすのかもしれない。
いずれにせよ彼らは、いまの世に「生きづらさ」を感じているのだ。つまらぬ時代になってしまった、窮屈な世のなかになってしまった、昔はもっとおもしろかった、と。それらネガティブな感想にはいずれも、「俺にとって」のひと言が隠されている。
自分の心が若いのか年寄りなのか、よくわからない。そういう人は「いまの時代の生きづらさ」を指標にするといいのだと思う。酔っぱらいが立ち小便をして、ドラマの刑事がこぞって歩きタバコをしていた時代が、1973年生まれのぼくでさえありありと憶えているほどの最近まで、この国にはあった。そんな社会よりも「いま」のほうが真っ当で生きやすく思えるのなら、その人は若さを保っているのではないか。「あのころ」よりも「いま」を健全に思えるのなら、それは若さのあらわれではないか。
それでも世のなか、よくなってるよ。
いまのダメダメなところも、昔のよかったところも、ひとまず「それでも」の一語に閉じ込めて、変化を受け入れていく自分でありたいと思うのだ。