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おもしろい文章の、ひとつの定義。

忙しくなると、ここに書く内容も仕事に関連したものが増えていく。

就寝前に本を読む。睡魔が眼前ギリギリに迫ってくるまで、Kindle端末でなにかしらの本を読んでいる。しかも読みかけの本が常時10冊近くあり、その日の気分によって「きょうはこれ」を読む。とくに Kindle端末での読書が増えて以降、ひとつの本をぶっ通しで読むことは、ずいぶん少なくなった。

いま中心的に読んでいるのは、昨年の早い時期に刊行された翻訳書である。ベストセラーになっているわけではないし、ツイッター等で見かけた数も片手で数えられるほどしかない。

おもしろくないなあ、と思いながら読んでいる。いや、おもしろい箇所もあるにはあるのだけど、「おもしろ」にたどり着くまでが長い。海外での評判と「おもしろ」の予感がなければ、早々に断念するほどおもしろくない。けれどもまあ、ここからすげえ展開があるのだ、仰天の結論をぶっ込んでくるのだと期待して、なんとか読んでいる。

そんな感じで読みながら、「これってほんとに『おもしろくない』のか?」と疑問が湧き上がってきた。だってそうだろう、ほんとうにおもしろくなければ、読むのをやめているはずなのだ。冒頭数ページで読むのをあきらめる本なんて、毎月何十冊とある。なのにぼくは、まだ読んでいるのだ、その翻訳書を。

そしてようやく気がついた。ぼくの抱いていた違和感の正体は「たとえおもしろかったとしても、誰にもすすめられないな、この本は」なのである。

おすすめは一般に、賛同の意と捉えられる。

しかしこの本をおすすめしたら、いろいろと疑われそうだ。人格とか、思想信条とか、人権意識とか、そのへんのレベルでいろいろ誤解を受けそうだ。だから到底、誰にもおすすめできない。そもそも、激賞するほど感動しているわけでもないのだし。


書名を伏せたまま書いてるので、抽象的な話にならざるを得ないのだけど、自分のなかでの「おもしろい」には、「あの人やこの人におすすめしたい」がずいぶん含まれているんだなあ、と思ったのだ。

おもしろいからおすすめしたいのではなく、読みながら「あの人におすすめしたい」と思えるから「おもしろい」の評価になる、というか。これも時代の、ソーシャルメディアの影響なのかなあ。

ともあれ、「おもしろい文章」の一定義として「他人におすすめしたくなる文章」はありえるのだろう。

問題はそれが情報としておもしろいのか、読みものとしておもしろいのか、である。そこの見極めに関しては、リツイートや「いいね」の数だけで判断されるものではない。

いま書いてる本、「他人におすすめしたくなる本」になってるかなー。