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なにを言うか。誰が言うか。それをおれが言ってもいいのか。

フェイスブックに、「過去のこの日」という機能がある。

去年のきょう、一昨年のきょう、三年前のきょう、あなたはこんなことを書いていましたよ。あなたはこんな記事をシェアしていましたよ。などを教えてくれる機能だ。これは大した発明というか、ぼくがいまでもフェイスブックになにかを書こうとする動機の半分以上は、この機能のおかげだったりする。来年や再来年の自分に「あのときのお前」を教えてあげたいのだ。

という話を書いてみたのもきょう、「過去のこの日」機能によっておもしろい記事に出会ったからである。いまから五年前の2013年2月13日、日本経済新聞でのイチロー選手のインタビュー(イチロー、40歳にして惑わず)だ。


その記事のなかでイチロー選手は、(おそらくは座右の銘を問われ)こんなふうに語っている。

「今はまだ色紙に一言と言われても書けない。大切にする姿勢や哲学はあるが胸を張って一言残せるほどの自分ではない。偉人の言葉を引用する年配の方がいるがあれはダサいと思う。拙い表現でも将来自分の言葉で伝えられたらなと思う」

誰かの立派な言葉を借りてくるのではなく、ぼくは「自分の言葉」であることを大切にしたい。たとえそれが、表現としてつたないものであってもかまわない。むしろ偉人の名言を引用してくることのほうが、ダサい。イチロー選手はそう語る。いったい、なぜか。

「結局、言葉とは『何を言うか』ではなく『誰が言うか』に尽きる。その『誰が』に値する生き方をしたい」

五年前にも震えたこの言葉に、きょう再び震えた。


引用はダサい、と語るイチロー選手の言葉を引用しながらもやはり、コピペやシェアやリツイートにあふれた「語り場」たるネット空間において、いちばん大事なのは「誰が言うか」なんだよなあ、と思うのだ。

あなたは「誰」で、あの人は「誰」で、そしてわたしは「誰」なのか。


あの人が言ってるんだから、信じてみよう。


そう思われるだけの「あの人」になるため、それを裏切らない「あの人」であるため、言葉の重さと軽さの両方をしっかり感じ止めながら、自分の言葉を探していこう。