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そしてわたしは摂生へ。

この半年ほど、腕時計を付けることが習慣となった。

いまでも週に2回ほど付け忘れる日があるのだが、その日はなんとなく手首がさみしい。あるべきものがそこにない不安、着るべき服を着ていないような心細さが、どこかある。

だれもがスマートフォンを携帯する現在において、腕時計はその人の価値観がわかりやすくあらわれるアイテムとなっている。その価値観はおおよそ、次の4パターンに分けられるだろう。


① 腕時計なんていらない派

時間は知りたい。しかしながら時間なんて、スマートフォンを見ればよい。どのみち移動中は、ずっとスマホを握りしめ、その画面を追っているのだ。わざわざ腕時計なんてする必要はないし、むしろ邪魔だ。この時代に腕時計を買うやつなんて大阿呆である。


② 時間がわかればいい派

腕時計があったほうが便利である。スマホは鞄やポケットにしまっていることが多いし、たとえば会議中や会食中、おもむろにスマホを取り出して時間を確認することは、相手に対して失礼な気がする。とはいえ腕時計なんぞ、時間がわかればそれでいい。家電量販店で売ってるようなペラペラの腕時計でじゅうぶんである。


③ 利便と効率を追求しまくる派

そりゃあ腕時計があるに越したことはない。しかし腕時計で確認できるのは時間だけであり、それはいかにももったいない。せっかく腕になにかを装着するのなら、メールを確認できたり、音楽が聴けたり、Suicaを使えたりしたほうがいいじゃないか。すなわち、Apple Watch に代表されるスマートウォッチを買ったほうがいいじゃないか。忙しいおれにはそれがぴったりじゃないか。腕時計にもイノベーションが必要なのである。


④ 装飾品として愛する派

お前らなにを馬鹿なことを言っているのだ。腕時計とは時計ではない。ここに実用を求めてはいけない。これは「時間もわかる装飾品」なのだ。指輪やネックレスやブレスレットの延長にあるもので、極端な話をするなら時間がズレていてもかまわない。だから腕時計は自分が好きなブランド、デザインのみで選ぶべきであって、機能などどうだっていいのだ。


以前のぼくは、完全な「腕時計なんていらない派」だった。野外フェスや海外旅行に行くときにだけ、Gショック的な腕時計を装着し、日常での生活においてはまったく腕時計を必要としていなかった。そもそも高級紳士腕時計はスーツに合わせるものであって、スーツを着ない自分には必要ないと思っていた。

しかしながら現在、「装飾品として愛する派」に移行しつつある。スーツを着る予定は相変わらずない。ロレックス的な腕時計への憧れもないし、それを愛でる気持ちも、正直ない。かろうじて心当たりがあるとすれば、衰えである。衰えはじめたおのれをカバーするものとして、ささやかな防具として、それを必要としているのかもしれない。

というのも今年に入ってから健康への意識がぐんぐんに高まり、不摂生の見本市みたいな生活をおくっていた30代〜40代に別れを告げ、ここからの10年は「摂生」をテーマにしてみようかな、と思いはじめているからだ。

60代や70代を過ぎてもなお、カッコよくしている先輩方はとても多い。しかしそうした先輩方はみんな、どこかで不摂生を捨て、摂生へと自分を切り替えている。若かった「あのころ」の延長線上にある生活をしているっぽいクリエイターはみな、その作品にも衰えが見えている。

このへんが切り替えどきなんだろうなあ、と思うのだ。不摂生をかっこよく感じる気持ちも薄まってきているし。