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諸行無常とマイブーム。

中学時代、まったく古文に熱心な生徒ではなかった。

それでも平家物語で知った「諸行無常」と「盛者必衰」というふたつのことばは、なんだかやけに耳に残り、心に残っていた。意味なんて、ほんとうのところではまるでわかっていない。お勉強として暗記した辞書的な「正解」を知っているだけで、腹のところでどっしりわかるには、中学生の自分はあまりに若すぎた。

数年前に、四六時中考えていたこと。十年前に、これは自分のライフワークだと思い定めていたこと。あるいは去年に、これからしばらく追いかけてみようと当たりをつけていたテーマ。

それらに現在、まったく興味を持てない自分がいる。軽い気持ちだったわけでは、たぶんない。それぞれ真剣に、また切実に、そう望んでいたものだ。なのにいま、まるで心が動かない。別に見つけたテーマや可能性を、追いかけてみようとしている。

ブレている、とも言えるし、節操がない、とも言える。あるいはこの「ブレ」こそ、成長の証だと胸を張る論調もときどき見る。

けれども最近思うのは、成長だとかネクストステージだとかの大仰なことばは抜きにして、けっきょくすべては「マイブーム」だ、ということだ。

ライフワークのように思っていたあれも、当時のマイブームだった。散々に頭を悩ませていたあの問題も、当時のマイブームだった。一生の仕事と思い定めたライターの仕事さえ、長続きしているマイブームに過ぎない。

すべてはマイブームだとする考えは、人間の(つまりは自分の)思考に過度な期待を置かず、また自分の結論を絶対視せず、過去・現在・未来の自分をほどよく客体化させてくれる、すばらしい着眼だ。これがあるだけで人生が重たくなくなる。

そしてもちろん、みうらじゅんさんが提唱したマイブームとは、煎じ詰めれば「わたしという名の諸行無常」のことである。大量消費社会における諸行無常を「マイブーム」と言い換えてみせたみうらさんは、ほんとのほんとに天才なのだと思う。

なにかにこだわっている人。自分や過去に執着している人。薄弱なロジックによる自己正当化の鎖に縛られて、身動きが取れなくなっている人。そういう悩み多き現代人にこそ、「すべてはマイブーム」の念仏を唱えてほしい。ほんと、ラクになれるから。