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きらいなことがやれる場所

学生時代、好きなことしかやってこなかった。

本も映画も音楽も、それから学問的なことも、ぜんぶそうだった。好きな作家にミュージシャン、好きなジャンルばかりをあさっていた。まだインターネットもなかった時代、それはそれですごくよかったとは思っている。好きなことの9割は学校で教えてくれないし、7割はプライベートで教えてくれる先輩もいない。おのずと独学のノウハウが身についたし、その技術はいまの仕事にも役立っている。

でも、最近になって「きらいなこと」もやっておけばよかったな、と思うようになった。

これは「あのころもっと英語を勉強していれば」みたいな話とは、少し違う。英語は誰がどう見ても役に立つものだし、明日からでも学ぶ理由がある。そういうのじゃなくて、「なんの役に立つのかさっぱりわからない学問」の話だ。

たとえば高校生のころ、生物の先生によるぼそぼそとした語りは、ラリホーの呪文にしか聞こえなかった。地学、物理、化学など、左開きの横組みで書かれた教科書の大半は、ほとんど日本語と思えないまま10代を終えた。

英語と違って、たとえば地学や化学なんかは、いまさらやりなおそうというモチベーションは湧かない。英会話スクール的な、地学スクールが駅前にあっても、誰も寄りつかない。あのころ真剣に取り組んでいたら、それはそれでおもしろかったんだろうな、という程度の思いでしかない。ひょっとしたら、なにかの扉が開いたのかもしれないな、というか。

とかなんとか考えると、きらいなことをやらせてくれる学校、それだけのゆるやかな強制力がある学校って、なかなか悪くない制度だったのかもしれないなあ、と思っているところです。

うん、学校って「きらいなことがやれる場所」なんですよね。