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うらやましい人とかっこいい人。

もしも自分がウルトラマンだったなら。

初代ウルトラマンの身長は、40メートルである。体重は35,000トン。びゅんびゅんと空を飛べるのはうらやましいし、スペシウム光線もかっこいい。けれども、その図体じゃ居場所がなさそうだな、と思う。街中に出てくるのは迷惑千万だし、田舎だって田んぼや畑を踏んだらえらいことで、人間世界を知る機会が得られそうにない。そもそも3分間しかもたないし。

その点、スーパーマンならよさそうだ。あいつは人間サイズだ。空も飛べるし、とんでもない怪力でもある。

けれどもスーパーマンは、衣装が恥ずかしい。普段はクールに背広を着こなす新聞記者をやっているくせに、なぜだかスーパーマンとして活躍しようと思った途端、全身タイツ姿にならないといけない。これはスパイダーマンしかり、バットマンしかりだ。せめてタイツの上からもう一度服を着ようよ。

そう考えるとスーパーヒーローってのは「かっこいいけど、なりたくない」ものとして設計されているのではないか。


たとえば現代におけるスーパーヒーロー、大谷翔平さん。もしも「大谷翔平神社」があったなら、事あるごとに必勝祈願や商売繁盛の願掛けに行きたいくらいの、明々白々なスーパーヒーローだ。

しかし一方、ぼくは、あなたは、大谷翔平さんになりたいだろうか? いやいや、違うよ? 1000億円ほしいとか、100マイルの速球を投げたいとか、メジャーでホームラン王を獲りたいとか、あんな9頭身になりたいとか、そういう話をしてるんじゃないよ? 彼が送っているであろう毎日を生き、彼が感じているであろうプレッシャーを日々感じ、彼が自分に課しているであろう決まりごとを課し、彼が目標としているはずの場所まで脇目も振らず駆け上がっていく覚悟がちゃんとあるでしょうか、と聞いているのです。

残念ながら当然ながら、ぼくにはない。無理です、それは。かっこいいと憧れる気持ちはあるし、真似できるところがあればいくらでも真似ていきたいけれど、「なろう」とか「なりたい」とまでは思えない。反対から言うと、やすやすと「なりたい」思えない人であるからこそ、「かっこいい」のだ。

その点さ、なんだか実家が大金持ちだったりして、一生かかっても使いきれないほどのお金を持ってて、それでのんびり、いかにも悠々自適に過ごしているっぽい人。「うらやましいなあ」「あんなふうになりたいなあ」と思うでしょ? でもそれはたぶん「かっこいい」じゃないんですよ。かっこいい人ってのは、どこか容易に真似のできない「おれには無理だわ」の要素を持ってるんですよ。

うらやましい人とかっこいい人は違う。そしてせっかく憧れるのなら、かっこいい人を憧れたい。そんなふうにぼくは思うわけです。