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寒いときに考えること。

みんな言ってるし、明日も言うだろうけれど、とても寒い。

寒いときにはどうするか。これまでのぼくは「寒いときには寒い国の人間に学べ」と思ってきた。具体的にはロシアである。ドストエフスキーの登場人物たちがどのように過ごしていたのかを思い出す。そうすると、サモワールという卓上の湯沸かし器を用い、熱い紅茶を淹れ、そこに甘いジャムを溶かすなどして飲んでいる。あとは当然ウォッカだ。古い訳の表記だとウォトカだ。お祭り騒ぎのときにはシャンパンを空けるものの、だいたいの場合においてロシア人はウォッカを飲んでいる。うむ、まるで参考にならない。

しかしこの冬、寒いときに思い起こす国が変化した。ウクライナである。

ウクライナではいま、電気やガスの生活インフラが痛んでいる。頻繁に停電が起こり、暖房も使えないことが多いと聞く。そしてもちろん、ウクライナは東京よりも寒い。「今年は暖冬だ」なんて話も聞くけど、ぜんぜん寒い。みなさん、いったいどんな思いで過ごしているのだろうか。寒くなればなるほど、それを考える。

夏の暑さは当然嫌だ。しかし寒さは——しかも温まる手段を奪われたうえでの寒さは——別種の嫌さがある。嫌というよりなにか、削がれるのだ。心が削がれ、尊厳が削がれ、ひたすらみじめになっていく感じが、寒さのなかにはある。『アリとキリギリス』や『マッチ売りの少女』が残酷にすぎる感があるのは、寒さや凍えの描写がリアルすぎるからだろう。あれらの物語を生み出したヨーロッパの人びとは、寒さとみじめさの関係を知り尽くしているのだろう。

早く冬が終わってくれないかな。あたたかな春が来てくれないかな。

震災の年以来、およそ10年ぶりに心底そう思っている。