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その生地に明太子を入れるな。

エレベーターに乗りこむと彼女は、バッグからなにかを取り出した。

ビニールの個包装をその場であけ、両手で大事そうに抱えながら彼女は、レモン色のそれを、もぐもぐと咀嚼しはじめた。一緒に乗り込んだ同僚らしき女性が「はあ? ここで食べる?」とあきれ笑う。もぐもぐをやめない女性は、困りきったように、けれどもうれしそうに答える。「わたし、これ我慢できないのよ〜」。彼女の分別や体裁をそこまで狂わせてしまうレモン色のまるい物体。それは、福岡を代表する銘菓、「博多通りもん」であった。数日前のエレベーターで偶然目撃した実話である。


「博多通りもん」は、それほど長い伝統を誇る銘菓というわけではない。

少なくともぼくが子どものころの福岡には、まだなかった。記憶だけで書いても仕方がないので調べてみたら、1993年の発売だという。つい最近じゃないか、と思ってしまうのはぼくがおっさんだからなのだろうけれど、それでもやはり伝統銘菓とは言い難い。

さらにまた、「博多通りもん」には福岡の特産品が、ひとつも使われていない。もしかしたら福岡県産の小麦が使われていたり、福岡県産の鶏卵が使われていたりするのかもしれないけれど、それは別に特産品じゃない。「福岡ならではの銘菓をつくろう」となったとき、どうしても人は生地に明太子を練り込もうとしたり、とんこつをアレンジしようと試みたり、余計なローカル縛りに発想を限定されて珍妙な菓子をつくってしまうものだけど、「博多通りもん」にその呪縛はない。うまけりゃそれで名物になるのだ。そして当然、まずけりゃそれで朽ちていくのだ。


たぶんコンテンツづくりにも同じことがいえて、中途半端に「おれらしさ」を追及しようとするのは、饅頭に明太子を練り込むような愚の骨頂でしかなく、そんなことよりはまず、ただただ「おもしろいもの」をつくることが、結果として銘菓(代表作)をつくる近道なのだと思う。

福岡の特産品が何だとか、わたしの個性は何だとか、そんなのよそからきたお客さんにとっては、知ったこっちゃないのである。