他人と変わったところのない、ごくごく普通の人間。
ドストエフスキーに『白痴』という長編がある。
主人公は、ムイシュキン公爵。題名の「白痴」は、彼のことを指す。いまの日本語で白痴は差別的なニュアンスを含む言葉だけれども、作中のムイシュキン公爵は、白痴というよりむしろ「天然」の語が似つかわしい青年だ。
底抜けに善良でありながら、空気を読むことを知らず、それゆえいくつもの失言を重ね、周囲から「おばかさん」扱いされようと、まるで気に留めようとしないムイシュキン。有名な話としてドストエフスキーは、キリストをモデルにこの主人公を造形したのだとされている。
そんなムイシュキン公爵が、下宿先の長男にして野心家の青年、ガヴリーラと対面してこんなふうに言ってのける場面がある。文脈はさほど重要ではないのでざっくりとだけ説明すると、ガヴリーラが(彼の考える)おそろしい計画を告白し、「わたしのことを卑劣な人間だとお思いでしょう?」と問いかけたあとのセリフだ。
これに対してガヴリーラは、
と怒りに打ち震える。はじめて読んだ20代のとき、こんな残酷な言葉もないよ、あんまりじゃないかドストエフスキー、と頭をくらくらさせたのを憶えている。当時のぼくにとっても「他人と変わったところのない、ごくごく普通の人間」は、これ以上ありえないくらい侮辱的な人物評に響いたのだ(ドストエフスキーは『罪と罰』においても、このコンプレックスを主題のひとつとして描いている)。
じつを言うと『嫌われる勇気』という本、企画書の段階ではずっと『普通であることの勇気』の仮タイトルがつけられていた。どうすれば自分が「他人と変わったところのない、ごくごく普通の人間」であることを受け入れられるのか。その解をぼくはアルフレッド・アドラーに求めていたのである。
自分が「天才」でないことについては、人生のわりと早い段階で多くの人が受け入れる。けれども自分が「特別」でさえなく、「他人と変わったところのない、ごくごく普通の人間」であることまでも了解していくのは、なかなかむずかしい。その現実を受け入れきれず、「ヘンな人」を装っている人を見ると、ぼくはいつもムイシュキンの天然発言を思い出すのだ。
ちなみに、これほどにも屈辱的な言葉はないと憤慨したガヴリーラは、こう続ける。
ドストエフスキーの長編がしばしば「現代の予言書」とされる所以である。