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嘘の多い人生はつらいけれど。

週末、ひさしぶりにメガネ屋さんを訪ねた。

ぼくは普段、裸眼で過ごしている。地下鉄での通勤も、パソコンに向かっての仕事も、メガネなしでほとんど問題ない。むしろ、老眼がはじまっているのだろうけれど、メガネをかけて本を読んだりスマホを操作するのは、いささか苦しくなってきた。なのでメガネをかけるのは基本、車の運転時と映画の鑑賞時くらいのものだ。

ところが最近、そこに「テレビ鑑賞」が加わってきた。テレビを観るにもメガネがほしい。とくに海外映画・ドラマの字幕判読にはメガネが欠かせず、予約録画の番組表なんてメガネをかけても判読がむずかしい。夜に車を運転していても信号や交通標識が滲んで見えるようになってきたし、そろそろレンズを交換するタイミングなのだろう。

検眼の結果、いまのメガネをつくったときよりもずいぶん近視が進行しているようだった。度数にして左右とも3段階ずつ、上げたほうがよいと店員さんは言う。断る理由もない。言われるままのレンズを所望した。


と、起きた事実だけを書けばなんということもない日常の一コマなのだけれども、ぼくにとっては割と感慨深い一日だった。

それというのも訪ねたメガネ屋さんが、四半世紀以上も前に勤務していた会社のチェーン店だったからだ。ぼくが働いていたころとは、社長も違うし、会社のロゴも違う。お辞儀の角度まで定められていた従業員マニュアルも、ぜんぜん違うものになっている。とはいえ商品を見てみると、あのころと同じ名前のプライベートブランドがあったりして、妙になつかしい。

店舗こそ違えど、おれもここで働いていたんだよなあ、と思う。ここでいまの年齢まで働き続ける未来もあり得たんだよなあ、と思う。10年・15年前の自分だったら、「あのままメガネ屋さんにいたかもしれないおれ」にゾッとしていたはずだ。けれどもいまは、「その未来はその未来で、たのしかったんだろうな」と思う。


ぼくは九州の、バイパス沿いのメガネ屋さんで夜遅くまで働きながら、誰に読ませるでもない文章を山ほど書いていた。なのでいまでも、どこかのお店に行ったときに想像を膨らませることがある。料理を運んでくるウェイターさんに「この人も家でひとり、なにかを書いているのかもしれない」と思ってみたり、髪を洗ってくれる美容師さんに「この人も仕事が終われば、原稿用紙に向かっているのかもしれない」と考えてみたり。実際、そういう「誰にも言わないひとりの時間」を持っている人は、何百・何千といるだろう。

嘘の多い人生はつらい。

けれど、秘密の多い人生は豊かだと思うのだ。